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瀋陽龍山教養所の残虐な迫害を大陸で迫害された人が再現(写真)

 【明慧ネット2004年8月23日】董敬哲は31才の広告師である。1995年瀋陽財経学院経済貿易部を卒業した。学校では学生委員会宣伝部長、「優秀学生幹部」、「優秀卒業生」であった。1999年3月から法輪功を修練し、「真、善、忍」の原則及び奥深い内包で彼女は更に善良で理性的な、上品な人になった。

 仕事中にも顧客のことを先に考え、顧客と同僚から良い評判を得た。しかし、彼女は自分の信仰を堅く守ったため、2001年5月24日瀋陽市平和分局集賢派出所の警察に連行され、2年間不法に労働教養を受け、2001年7月4日瀋陽龍山教養所に送られ迫害された。数ヶ月苦しめられた後、龍山教養所は2001年12月30日息奄々になった彼女は大北刑務所の病院から釈放された。

 以下は彼女が述べた瀋陽龍山教養所で迫害された経験の一部である。迫害は閉鎖した場所で行われ、人に知られずに行われたので、彼女は当時の状況を写真に再現した。当時迫害された姿勢と動作は写真よりもっと激しい。例えば、「蒙被定位」という刑罰は足がパッと両方に分けられ、頭を腿に押さえられ、顔はコンクリート地面にあたり、身体の関節と骨まで位置がずれる。当時の恐怖の雰囲気と正義も道義もない精神的迫害は写真では再現出来ない。

 写真中残虐な刑罰を演じているのは董敬哲本人であり、上着、ズボン、靴等は皆当時迫害された時のものである。現在龍山教養所に監禁されている法輪功学習者はまだこのような着物を着ている(夏は薄い黄色のTシャツ、米色のズボン、春秋冬は図1に着ている青と白が混ぜているスポーツウェアである)。

 図2は迫害された実物証拠である。

図1 図2 図3
図4 図5 図6
図7 図8

 1、刑罰の種類:大根抜き

 迫害発生日:2001年7月6日

 迫害発生地:瀋陽龍山教養所第一大隊東3棟(第一大隊の法輪功学習者を監禁している牢屋は東西両側で、真ん中は隊長室に分かれており、東側に部屋が三つある。)

 迫害された本人が述べた残虐な刑罰経験:

 邪悪な嘘を教え込み、眠らせなく、しゃがみ罰など法輪功の信仰を強制に放棄させようとする手段をとった後、2001年7月6日龍山教養所の迫害を主管する院長李鳳石と第一大隊長李継峰が牢屋に来て「教育団」に圧力をかけた。李鳳石は「教育団」に「時間を無駄にしないで」と言った。李鳳石と李継峰が去ってから、「教育人員」は「時間を無駄にしなかった」。まず4、50人を動員してグループに分けて私を攻撃し、毎回少なくとも20人が一時間ぐらい攻撃して次のグループと交替した。彼女達は私に寄ってきて、話したり、叫んだり、脅かしたり、泣いたり、でたらめな声を出してくれた。彼女達は座っていながら、私をしゃがませ、しゃがまないと、押さえて強制的にしゃがませた。

 私がしゃがまないため、十数人が私を押さえて強制的にしゃがませた(図1)。両側の人は思いっきり私の肩を押さえ、背後の人は髪の毛を上に向かって思いっきり引っ張り、前の人は首をしめつけ、下は足を両側に分けて足を動かないように押さえた。また両側の人は手を後ろから上げて固定した。両手の肩に連結部分と腕は骨が折れたように感じられ、足腕も折れたように感じられ、暫く経つと痺れて感覚がなくなってしまう。首が絞められると吐き気を催し、嘔吐が止まらなく、嘔吐する中にも首を絞めたので、声を出そうとすれば、気持ちがもっと悪くなるので非常に苦しい。7月の瀋陽の気温は30度以上で、牢屋は小さく人は多く、空気も通らないため、私の衣服や髪の毛等は皆汗に濡れた。二本の脚は両外側に分けられ、足は内側に押さえられ、足は極限までねじられたため、一時間後靴の帯(幅1cm)が切れた。(図2注:これは道具ではなく、実物証拠である)。

 2.刑罰の種類:蒙被定位(注:布団をかけて止める)

 迫害の発生日:2001年7月10日

 迫害の発生地:瀋陽龍山教養所第一大隊東三室

 迫害された本人が述べた残虐な刑罰経験:

 2001年7月10日、私は数日間眠ってなかったから意識がぼんやりとなってきた。第一大隊副大隊長李生原が東三棟に来て、私を指しながら「教育人員」に言った、「彼女の状態はだめだ。時間がないから頑張るんだ。」「教育人員」達はパッとドアを閉めて私をしゃがませて、後ろから両手を高く挙げ、脚を外側に分け、足は内側に押し、声を出さなく呼吸もしないように、タオルで口と鼻を止めて(図3)、頭をコンクリート地面に投げた。頭を腿に押し込み、顔を地面まで押さえたので、関節と骨の位置がずれた。その上に布団をかけてきた(図4)。

 気温が30度以上の牢屋で、普通に座っていても汗が出るが、このような非常に苦しい姿勢で布団に覆われると、着物が全部汗に濡れ、髪の毛は水から取り出したばかりのようで、頭が膨張し、呼吸が出来ないためショックを受けようになった。周りから威喝、罵る声が耐えず聞こえてくるが、私は少しも動くことが出来ない。その状態は生き延びようとしても出来ず、死のうとしても出来ない状況で、精神まで崩れそうになる。一時間後脚の感覚がなくなり、歩くことが出来なくなる。髪の毛はたくさん取られて、頭の皮膚まで痛かった。数日後、右の目に充血し瞼に紫色の痕ができた(図5)。

 普通の人は生きていく欲望が強く、死ぬのを怖がるが、このように残虐な刑罰は人に死ぬのを怖がらせるのではなく、生きているのを怖がらせる。法輪大法の本に「自殺や殺生を厳禁」する道理を強調していることを覚えてなければ、私は恐らく今まで生きられてこないだろう。

 3.刑罰の種類:隊長の殴り

 迫害発生時間:2001年8月7日

 迫害発生地:瀋陽龍山教養所 第一大隊西二室

 迫害された本人が述べた残虐な刑罰経験:

 2001年7月末、第一大隊の中隊長趙燕が東三室に来て、「董敬哲、部屋が変わるから荷物を持ちなさい」と言った。私は西二室に来た。東三室の人達は邪悪を見破ったため、隊長達の替わりに人を苦しめたがらない、東三室の「班長」が会議で「今度東三室では人を殴ることはしない」と私に保証したことがある。(東三室は8月7日に解散され、ほとんどの人は第二大隊に行った。)2001年8月7日、副大隊長李生原は私を事務室に呼んで行って、24時間眠ってない私をしゃがませようとした。私が事実真相を教えたら、彼は大声で叫びながら、私の頭を押さえて本で顔を十数回殴った、私の顔は直ちに腫れてきた。

 私が部屋に戻ってきたが、彼はついてきて「教育人員」の手伝いで私の髪の毛を掴んで頭をコンクリート地面に「があん、があん」と打ち付け(図6,7)、本を持って顔を十数回殴った(図8)。私の頭は大きく腫れ、顔に本の痕があった。当時西二室に十数人がいたが、暴力をふるう場面を見て、二人は直ちに心臓病が再発した。

 2001年12月上旬、瀋陽龍山教養所で長期的肉体的迫害と精神的圧迫を受けたため、私は神経が痛くなり、歯も痛くなり、右側の顔が大きく浮腫み、気持ちが悪く、ご飯まで食べられなくなった。2001年12月20日、龍山教養所医務室で、医務課の張ショウシュウ課長が点滴をしてくれたが、私はまた腎臓機能が弱くなってきた。彼らは院長李鳳石に申請してから、第一大隊長楊敏、張寧、生産課の李継峰などが私を大北監管病院に送って、これから面倒を見てくれなかった。そのとき私は着替える着物もなかった(着物は龍山教養所に置いてある)。幸いなところ、同室の犯人たちは皆法輪功の真相を良く知っていたので、衣服を貸してくれた。私はすでに15日間何も食べなく、それに意識不明の症状が出てきた。医者は脈が乱れ、腎臓が弱く、酷い酸中毒だと診断した。2001年12月30日龍山教養所は責任を逃れるために、奄々となっている私を大北刑務所の監管病院から釈放した。

 家に帰ったが、酷いダメージを受けた身体を普通の人はどうすればよいか分からないだろう。しかし法輪功の修煉は奇跡的に短い時間で私を回復させてくれた。しかし、李鳳石ら龍山教養所の警察は耐えず家に来て騒乱したため、私はやむを得ず家を離れなければならなくなった。

 龍山教養所で迫害されて死亡した王紅(瀋陽市遼中県)、王秀媛(瀋陽市瀋河区)に比べれば私は非常に幸運であり、龍山教養所で電気棒に感電されて顔が破れ、今でも「瀋陽医科大学」に入院している高蓉蓉に比べれば、私は喜びを感じるくらいだ。21世紀の現在、人権と法制が憲法に決められている中国で、「真、善、忍」に従って良い人間になりたいと思う人達には、このような「喜び」があるはずがないのだが、江氏集団の5年間の国力を尽くした、法輪功への迫害、不法弾圧のもとで行われた一千万のこうした良い人間の迫害遭遇に比べて、私のこのような「喜び」は非常に現実で、悲しいことである。

 法輪功学習者は政治に参与せず、政府に反対せず、彼らが反対するのは江氏集団の正信に対する迫害と人間の善良な本性に対する踏み付けることである。江沢民は共産党の代表でもなく、中国政府の代表でもなく、中国人民の代表でもない。迫害された経験を書くのは、隠された歴史の一部を残したいからである。歴史は消えず、嘘も言わない。世の人々は歴史から善悪をはっきり見分け、歴史は人に理知をはっきりと教えてくれるだろう。

 人生は慌ただしく数十年、またたく間に消え去るものである。古今を通じて、人々は昔の事を振り返る時、往々に善良を守ったため心が慰め、良知を無視したため残念に思う。一部の人は生涯正義に背いたため、自分の生命を永遠に失った。すべて善良な人が善良を守り、自分の生命の最も貴重な良知を守ろう。真相が分かるのは憎むためではなく、もっと美しい未来のためである。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/8/23/82400.html