エチオピアの青年が「私の法輪大法修煉」について話す
文/エチオピア弟子
私は19才の学生です。自然科学の分野で二年間の予備コースを終えて、今年の5月、エチオピア高等教育学校から大学入試を受けたばかりです。以前私の人生が歩んで来た路を考えてみると、これは実に普通の事ではありません。私の多くの向上は法輪大法修煉と偉大な師父の慈悲によるものであると、嬉しく思っています。
5年前、中学三年生の時、私の父は彼の兄弟によって殺害されました。生前は、彼は私にとって全てでした。父が亡くなった時、私は自分を制御出来ず、何が起こっているのか、自分が何をしているのか分かりませんでした。親戚の者が私を精神病院へ送り、私はそこに一ヶ月居ました。帰宅した時私はただ空虚と感じ、勉強を止め、父の死に纏わる事情について、又伯父達にどうやって復讐するか、復讐するべきであるかどうか考えながら、森林の中で過ごし始めました。翌年、2000年私は良くなり、中学三年生からの教育を続けました。この後私は殆んどの時間を森林の中で過ごし、一、二週間に一度学校へ行くだけでしたが、それでも学校は私を受け入れてくれました。明らかに私の人生は大変混乱していました。
森林の中で過ごしている中に、私は陸軍に居た人に会いました。彼は30年位兵隊でした。二年間に渡って彼は私に銃の使い方や、爆薬使用技術や、自己防衛の方法等、多くを教えてくれました。
この様な事は恐ろしく聞こえるかもしれませんが、私の国では近年この種の情況は比較的普通のことでした。私は政府に反対しており、金持ちに反対し、社会に反対しているとも言えました。法輪大法に出逢うことが無ければ、どの様になっていたか考えるのも恐ろしいことです。
ある日、タクシーの中でドイツから来た法輪大法学習者に会い、彼は私にビラをくれました。その時は私は伯父達が私を罠に掛ける為に彼を送って寄越したのではないかと、彼のことを怪しく思い、彼が何者なのか知りたく思いました。彼のことを知ろうとして彼の家へ行き、そこで彼は私に"転法輪"をくれました。最初の三日間は私は彼に尋ねる質問を本から探しました。彼をもっとよく知ろうと、彼に質問する為だけに本を読んでいたのです。けれど私は彼に関し、何も怪しいことは発見出来ませんでした。三日目に討論していた時、彼は私に、「本を読みなさい。あなたの質問に対する答は本から得ることが出来ますよ」と言いました。この瞬間私は自分に言いました、「この本を読まなければならない」、そして読み始めました。
その本を一度読んだ後、私は自分に尋ねました、「仕返しが何の役に立つのだろう?」 私はその他の多くの質問を自分に向け、多くのことについて新たな認識を持つに到りました。その後私は法輪大法の学習を始め、それからもっと多くのことを理解するようになりました。四ヶ月の後、私は森林から出て、私の家族の元へ戻りました。私は偉大な修煉法を学習出来て大変嬉しく思い、社会の中で平和に暮しています。以前生きていなかったのが、生きるようになったと言えます。法輪大法修煉で良い人間になる機会を与えてくれた師父に、感謝したく思います。二週間前、私は親戚の者が多く住んでいる街へ、仕事を探しに行きました。行く前に私は法輪大法についてと、中国における迫害についての資料を用意しました。私は又そこで動作を教える計画でした。9日間滞在し、仕事はまだ見つかりませんでしたが、多くの人が法輪功のことを知りましたので、嬉しく思います。
私に法輪大法を紹介してくれたドイツ人の学習者と私は、"法輪功" をアムハリック語に翻訳しようとしています。又いく種かの資料も翻訳しようとしています。アムハリック語に翻訳された後、多くのエチオピア人が学習を始めることを望んでいます。又師父が彼らに機会を与えることを望んでいます。下記は私の故郷ムガール( Mughar)への旅の話しです。
2004年7月3日、日曜日、私は旅の準備を始めました。目的地ムガールまで行く途中、いくつかの小さな街に滞在し、アムハリック語の真相資料と法輪大法紹介の資料を配るよう計画しました。私は小さな鞄に資料と着替を入れました。月曜の早朝バスに乗り、アディス・アババ(Addis Ababa)から45キロ離れたホレタ(Holeta)へ行きました。朝9時頃そこに到着した時、鞄が破れて困りました。これは邪悪の妨害であると理解しました。
小さなカフェへ行って鞄を修理し、この小さな街でビラ配りし始めました。法輪大法修煉についてと中国での迫害について話もしました。午後3時にアディス・アババから85キロの処にある、エンチニ (Enchini)へと旅を続けました。エンチニには午後4時に着き、更にビラ配りをしました。そこでは15—25才の多くの若者達が法輪功に興味を持ち、動作を教える為の約束を翌日にしました。夕方の7時頃、私は親戚の大部分の者が住む、ムガールモコダ・キャンプへ行きました。一時間バスに乗ってそこに到着すると、親戚の者達は久しぶりの再会に大喜びしました。
私は彼らに法輪功と中国での迫害について話しました。殆んどの者が多くの質問をし、私は自分の理解に基づいて答えました。翌日私は資料を持って、エンチニへ行きました。前日会った若者達が、フットボール場で待っていました。そこで彼らに動作を教え一緒に煉功しました。その後私は街を歩いてビラを配りました。午後1時半に私がビラ配りしている時に二人の警察官がやって来て、私を警察署へ連れて行きました。私は前もって許可を取っておくのを忘れたのでした。彼らは多くの質問をし、私が持っていた資料を調べました。彼らは何も不正を見つけることが出来ず、5時に私を釈放しました。私はビラを囚人と警察官に渡して、ムガールへ戻りました。
翌日、上級幼稚園の卒業式がキャンプの高等学校の講堂であり、その朝私はそこへ行って校長に、講堂でビラ配りし、迫害の話をする機会をもらえないか聞きました。ビラを配るのは良いが、もう既にプログラムが決まっているので、話をすることは出来ないと言われました。私は彼に有難うを言い、式が終わるのを待ちました。そして7時に私は講堂に居る人達にビラを配り始めました。多くの人が動作を習いたがったので、フットボール場へ行って教えました。翌朝彼らは私の親戚の家へやって来て、私達は一緒に煉功しに行きました。
煉功した後私は、祖父母が住むワユ・ボロー(Wayu Boro)へ行きました。ワユ・ボローへの路は歩く以外交通の便が無く、泥濘で、キャンプから大変遠く、とても困難でしたが、7時間の歩行後祖父母の家に着いた時は、私は非常に嬉しく思いました。着いた時私はとても疲れていて休憩したく、当地でCheffe grass と呼ばれる草の上で気分転換する為に外へ出ました。そこに坐っている間私は、多くの農夫が、テラ (Tela)と呼ばれるエチオピアの伝統的なアルコールが売られる家に入っていくのが見えました。私はこれらの人と話す為にそこへ行きました。彼らは農業やその他の事について話していました。祖父母の家に戻って、農夫達の為のビラを持って戻って行きました。彼らはアムハリックを話すことも読むことも出来ませんでしたが、ビラを受取り、子供達に手渡す約束をしました。私は当地の言語であるオロミック(Oromic)語で、法輪功と迫害について話まし、翌日Cheffe grass の上で会うことに決めました。
疲労は消え、私は祖父母の家に以前住んでいたことのある農民と話す為に家に帰りました。私は火の横に坐り、その農民も同様にし、私達は迫害についてより多く話しました。その後遠距離にある砂漠に住んでいる曾祖父母の家へ行きました。途中晴れ渡った空と砂だけしか見えませんでした。午後3時頃シビル (Sibilu)と呼ばれる大河を泳いで渡りました。長時間歩いたにも関わらず、家はまだ見つかりませんでした。農家へ行って助けを求めると、彼は私の曾祖父母を知っていると言い、彼は私を招き入れ、一晩そこに泊ってもよく、翌朝道を教えてくれると、言いました。私は彼の家族と夕食を共にし、Mered (泥と石で作ったベッドで牛皮が敷かれている)の上で寝ました。
翌朝農夫とその家族が私の曾祖父母の家を教えてくれ、私は困難も無く土曜の昼頃到着しました。そこには仕事が無い為に多くの農夫がたむろしていました。私は彼らに法輪功と中国における迫害について話し、それから話し合いを持ち、彼らの質問に答えました。日曜日に私は馬で帰る用意が出来ました。その朝祖父母の家に向けて出発し、1時頃に着きました。昼食後少し休憩し、9時にムガールモコダ・キャンプに向けて出発しました。次の2日間は、朝私が動作を教えた近所の人達と共に煉功し、ムガール・セメント工場へ行ってビラ配りをし、法輪功と迫害について話しました。翌日ブラユ(Burayu)の家に帰りました。
2004年9月14日
(中国語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2004/8/31/51918.html) |