日本明慧


先生の経文『人心を放下し、世の人々を救い済度する』を読んだ感想


 文/大陸大法弟子

 【明慧ネット2004年9月9日】師父の経文『人心を放下し、世の人々を救い済度する』は再度真相を伝える重要性を諭されている。大法弟子が正法の中で負う重大な責任と歴史的使命を明確にして、はっきりと今時間が緊迫している事を述べておられる。そして、大法弟子に「一人一人皆表に出て真相を伝えるように、あらゆるところに真相が伝わるようにし、人のいるところあまねく真相を伝えるべきです。」とはっきり話された。(師父の以前の講法の中で控えめに、直接弟子が具体的にどのようにすべきかを教える。)数年来、大法弟子は大法を実証し、この世の中で人を済度しているが、まだとても足りない。また多くの問題と足りないところがあるが、しかし、師父は講法の中であまり批判されないし、重苦しい話もされなかった。今度も同様に、経文の中は大法弟子に対する期待と激励に満たされていた。衆生に対する大いなる慈悲である。しかし大法弟子はこの経文を重い金槌、法鼓にますべきで、“重い金槌の下で精進すること分かり、法鼓が人に目を覚ます”(《鼓楼》)、以前はうまく行った学習者は緩めることなく、更に精進して、もっとうまく行い;以前はしっかりと行っていなかった、あるいは出てきていなかった学習者は目を覚まして、この最後の機縁を大切にするべきだ。

 直接人に真相を話すのは、的確に相手の質問に答えることができるし、彼らの納得できない疑問と邪悪なうその毒害を暴き出す。同時に、発正念と大法弟子が持っている慈悲の場で、それらのよくない考えや他の空間の邪悪生命が人に対して妨害とコントロールするのを止めさせる。ある同修は大量の大法を実証する仕事をしていたが、あとになると、いくらかの緩める心理あるいは満たす心理が生じた。ある同修は、その他にも大法を実証の仕事をとても多くしているが、しかし、直接人に真相を言うのはとても少ない。もちろん色々なやり方で真相を伝えるのは必要だが、大法弟子は本来の仕事をしっかりと行わなければならない、元々はもっと出てきて真相を伝えるべきだ。多くの次期の修煉弟子は私達が真相を伝えるのを待っている。多くの人はまだ大法に対して正しく認識していなので大法を理解しておらず、また邪悪のうそに騙されているので、私達の何らかの話が彼らの運命を変えることができるかも知れない。彼と繋がりがあり、多くの大窮を代表する計り知れない衆生かもしれない。

 大法弟子にとって、真相を伝えるのはすべて一貫しており、生活の中で、仕事の中で、各種の場所、あるいは偶然に接触する出会った人はすべて私達が真相を伝える対象だ。親友、同級生、同僚、隣近所などはもっと自分から伝えにいくべきだ。婚姻式、葬式、友達の集まり、友達を訪ねる時などすべて真相を話すよい機会だ。真相を話す時は、自分から話題を持ち出すように、相手が大法に関連した話題を言い出すのを待っていると、多くの機会を失うかもしれない。一旦機会を失ったら、二度とはありえません。

 当面の時間は、もうとても少なく、“歴史はもうすぐ新しい段階に入ります。” 大法弟子は緊迫感と使命感を持つべきで、のんびりとしていてはいけない、すべての機会を捉えて世間の人を救うために、同時に冷静、理知的になり、たくさんの人を救うべきである。あるいは、ただ“私はもう話した”とだけに満足しないで、真相の質と効果をも注意しなければならい。一人に話すときはできるだけ相手に理解させる。

 相手の要素の外に、真相を伝える効果の善し悪しは大法弟子自身と、とても大きい関係がある。もし大法弟子の修煉がよくて執着心が少ないと、自身の正念の場が強くて、言い出す話は更に力をもち、真相を伝える効果もよくなる。師父は経文の中で私達に教えておられます。「新しい学習者も古い学習者も長くから執着している人心を放下し、全面的に早く世の人々を救い済度してください。」大法弟子の存在のいくつかは人心が真相を話す効果に影響する。最も主要なのは恐れる心で、これも一部の学習者がぐずぐずし、出てきて真相を伝えようとしない主要な原因だ。実は今、邪悪はすでにあまり残っていないので、それほど大きな作用を発揮することができない。その上、世間の人はますますはっきりしてきているので、正念を強めてさえいれば、あまり安全に関する大きな問題はないでしょう。もう一つは、真相を言う時に使い分ける心があって、異なった階層、異なった職業、文化の程度、いろんな年齢の人に対して同じように見ようとせず、ある人に対して言おうと思っても、言ったり、言わなかったりする。

 実は、いかなる人もすべて法のために来たので、大法弟子の視野の中では同じにするべきであり、すべて私達が真相を伝え、済度する対象です。私はある人を知っています。体は身体障害があって、少し知恵遅れですが、ある日、突然私の家にきた。私の心は、ひょっとすると思った:彼女は真相を聞きにきたのかな?私が彼女に真相を話すと、完全に理解する事ができるとは思わなかった。ある同修は真相を言う時心配する心、あるいはその他のいくつかの人心があって、ある人は恥ずかしいと感じる、ある人は以前に転化されたことがあったので大法によくない言論をした。もし人に真相を話すとすれば、人々が裏でいろんなことを勝手気ままに論じることを心配する。これらはすべて人心で、すべて真相を言う時注意して取り除くべきなのだ。ある同修は修煉しない家族の安全を考慮するなどと常人の心で、同修に真相を言わせようとせず、ひどい時には、邪魔をするので、同修は多く発正念するべきである。家の環境をきちんと整理して、家族に多くの真相をはっきりと説明し、家族が真相を理解できるように助けるために、強い正念をもつべきである。

 真相を言う時は、出発点にも注意すべきである、慈悲で衆生を済度するべきで、完全に相手のために真相を知ってもらうべきであり、僅かでも、なんらかの求める心がないようにする。ある人は手柄によって過ちを償うため、ある人は威徳を作り上げるため、もちろん真相を伝える中で確かにこれらの要素を含んでいるが、しかし、これらすべて学習者が師父の標準にしたがってよく行なうことで自然に発生するものなので、執着心からくるものではなく、求めるものでもない。もし自分の要求から出発しないならば、真相を伝えるときの心が不純であり、純粋ではない。真相を伝える効果に影響するだけではなく、逆に相手が離れていく。多くの常人はあなたが単純に、彼のためによいと思っていなければ、何かを求めている、別の目的があると考えるとすれば、一瞬にあなたの言ったことを聞き流してしまう。後であなたが、いろんなことを言っても彼は聞こうとしなくなるし、その上、このような印象が出来てしまうと難しくなり、この人はあなたの求める心で救われる機会を失うかもしれない。

 正法の中であまりよく行っていない学習者がいる。ずっと出てこない学習者、とても大きな間違いをしたことがあるが心を入れ替えない学習者、ある程度の邪悟状態になっている学習者など等。師父の経文《人心を放下し、世の人々を救い済度する》は再度、警鐘をたたいて鳴らし、ただ自分を大法弟子と考えれば、師父の要求通りにすべきであり、これは最後の機会である。「先生の要求にそって、大法弟子は法を実証し、自分を修煉し、そして本当の大法弟子となる。」(《頭をはっきりとさせよう》)

 まだ一部の人は修煉を放棄して、大法を信じなくなり、ひどい人は反対側になった、一人の法を学んだ生命としては本当に惜しい、悲惨なことだ、結果も恐ろしい。しかし師父はすべての生命に対して、特に法を学んだ生命は、とても惜しんでいる。慈悲をもって、ずっと見棄てないで、ずっと機会を与えているが、ただ時間は本当にとても緊迫しており、残る機会は少なくなった。この人たちが冷静に考え、本当に自分と衆生に対して責任を負うことを望んでいる。「くれぐれも師父の慈悲を冗談として考えないでください。」、「くれぐれも失われた理性と常人の執着によって自らの永遠を台無しにしてしまうようなことがないようにしてください。」(《2004年シカゴ法会での説法》)

 以上は個人のいくつか悟りで、不適なところがあれば、慈悲で指摘してください。師父の経文、《人心を放下し、世の人々を救い済度する》を得てから、私はすぐに暗誦し始めた。この文章の暗誦している中でまた繰り返し学んだ。同時にまた《正法時期の大法弟子》も復習しています。同修はみなこの経文を、暗誦するように提案します。法を師にして、勇猛精進しましょう。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/9/9/83644.html