日本明慧


色欲心を取り除く認識

 文/大陸大法弟子

 【明慧ネット2004年9月14日】正法の過程が進むにつれ、真に修める弟子は絶え間なく法の上で高まっていく。しかし、多くの同修は色欲の問題に悩ませられている、甚だしきに至っては誰もが認める精進の実修弟子もある程度の問題がある。口に出しにくいため、集団で交流する際、公にして話したくない。私はどのように内に向いて探し、直ちに自分の色欲の心を発見するか、また、長期にわたりとこの心にどんなに悩ませられていることか、これら両面の問題について自分の認識を話す。

 まず、一念から捕まえなければならない、“千里の堤は、アリの穴で壊す”という格言がある。修煉上から言うと、一念は他の空間に物質を形成し、更に深刻なのは旧勢力はずっとあなたを注視していて、機会があれば隙に乗じようとねらっており、もしあなたは自然の流れに任すならば、それはあなたを全面的に破壊することができる。明慧132期の中で、一人の固く信じる大法弟子がいて、臨終の際、彼は女郎買うという深刻に煉功者の標準に背く事をしたことがあると妻に告白した。私達は大いに驚き、このような現象はきわめて特殊だが、私達にとっても警告となった。

 先ず私自身のことを言うと、獄中で、色欲の念が出て(室中の犯罪者の話す内容はたくさんすべて性の方面だ、とても低級で下品で、その時自分の周囲の環境はは自分の心性と関係があると悟れなくて、もし自分の心は正しければ、周囲の人を制約することができる)、このような場所で、自分が少し念があっても大したことはないと思って、重視していなかった。一回捉えることなく、2回、3回があって、夢の中で色の関があり、それは自分の夫だった、乗り越えられなく、しかもあまり重視していなかったので、次から次へと越えるのがもっと悪くなって、最後に発展したのが一人の知らない人で、完全に乗り越えられなかった、この時になって焦り、努力を持って、しっかり制御した。だから自分の一念を直ちに捉えるべきだと言って、直ちに消滅させた。

 更に言いたいのは容易に軽視しがちな男女の情で、たとえば、ある異性に対して好感があって、あるいは男女の同修の間で、最初は一種の敬意で、いつの間にか考えのなかで現れる回数が多くなり、この時には警戒するべきで、どんな心が邪魔しているのかみてみる、すぐ濾過してみると、不純物が残る。まだもしわからなければ、今からこう仮定してみよう。自分が抱いている考えをすべて机上に置き、みんなに見てもらい、あなたは不明瞭なところがあるのではないかと考え、甚だしきに至っては人に顔向けできなくなり、すぐ問題を発見することができる。

 2ヶ月前、明慧ネットに連続で路頭に迷う同修がある程度の感情の問題が現れることに言及した。名残惜しさや愛慕、離れがたい情を抱くものもいれば、更にある者は、男女関係の問題を持ち、あるいはその間に入ったりする。後者の私達のことはさておき、前者のような感情を抱く同修はほとんど、苦悩していると思う。彼らは多くの面でうまく修煉できて、大法を実証する中での作用も誰の目にも明白なので、思想の中でちょうど現れる時、直ちに捉えていないで、あなたは放任して、修めていないのに等しい、何を修めるのか?この心なのだが、あなたはそれに対して遠慮しているが、それはあなたに対しては遠慮などはしない。修煉は厳粛だ、すでに物質を形成して、更に取り除くのは難しくなる、師父の『転法輪』の中で「天目について」で「時間が経つにつれ、それは大きいな場を作ってしまい、ますます湧き出てきます。・・・・・・しかし、それをなくすには、困難を満ちた長い修煉の過程を経なければなりませんので、これはまったくもって不必要なことです」と言っている。

 私達はみな自分を照らし合わせみると、本当にその環境の中に身を置けるだろうか。私は初めにこれらの文章を見た時に、すぐに浮かんだ思いは「本当に意気地がない、自分がなにしに来たかを忘れて、こんな心がまだある。」ということだった。何日かそのような文章が連続して掲載されたので、やっと自分を見つめて、探さないないとわからないが、探すと驚いた。自分が一部の男性の同修に対して好感を持っており、修煉者と常人の思想の境界の引き離す距離は大きすぎるので、普通の人に対する興味は持てなくなった。修煉者に対する好感は、時々頭の中で現れて、すでに不純なものが入ってしまっている。もしもこうした時に自分をあのような環境に置くと、自分が同じような問題は起きないと保証することができるだろうか?問題がないとしても、それで自分が決してこの心がないというわけではない。すべて修煉者の環境は異なっているが、心は達成すべき基準を超えてなくてはいけない。

 この心を発見して、あるいはこの心がとても強くなって、どのように取り除くというのか?まず法の上でよく理解しなけらばならない。師父は「あなたが正念を堅め、執着を排斥することができるとき、私は少しずつ少しずつ取り除いてあげています。あなたにできる分を私は取り除き、その分を消してあげます」(『2004年シカゴ法会での説法』)と言っている。しかしあなたが本当にそれを排斥するのは本当にたまらない。それはまだあなたに一種の錯覚をもたらして、排出すればするほど重くなって、排出しても、まだ残っており、それは役に立たないので、放棄したほうがいいのだ。実はこの時に業力はすでに死に物狂いで抵抗していて、この時に主な意識は勝ち気で、あなたの業力、あなたがこの心をリラックスしているためで、これらの物質を消すには、心は耐えなければならない。私はこの心を取り除くときもあのような感じで、力不足で、何度も失敗した。それから私の心に一念が生じた。成功しないと戦場で死んでもいい、帰ってこないで、もっとたまらなくて、もっと前に向かって突き進んで、本当に勝利して、楽になった。

 師父は『転法輪』の中で「煉功して魔を招く」の中で「その心がさえ放下できれば、なにもかも放下できますので、物質的利益を捨てろと言われれば、当然、放下できます」としている。明慧ネットで言及したある学習者は強行して自分を別の学習者と別れて、私はそう思わない、あなたはあなたのこの心を捉えて、決心してその心を取り除く、この環境を心性を高めるよい機会にして、あなたは結局どうなるかを見て、成功はきっとあなたのものになるはずだ。「なんらかの手段や方法で入静しょうとするならば、私に言わせますと、それは外に向かって求めることになるのです。・・・・・・しかし、真の修煉は心を修煉しなければならないもので、」「複雑な環境は、私は逆によいことだと思います、複雑であれば、あるほど、その中から高人が現れてくるのです、こういうところから抜け出せるようなら、その人の修めは最もしっかりしたものであると言えるわけです。」(『転法輪』の「清浄なる心」)。その他に、この心を取り除くと同時に、まだ一つの出発点の問題がある、法のために責任を負う必要があり、無理矢理分かれるのは資料点に人員不足をもたらさないでしょうか?もしあなたは法を第一に置くなら、自己を放下して、私があなたのこの心を取り除くのは一瞬の事で、急速に苦境から出て希望が見えてくる。

 私は更に提案として、すべて色欲の問題で長期にわたりこの心を悩ませている同修や深刻な問題が存在している同修、あなたは同修達の前に言い出して、あなたに対してこの心を取り除くには利点がたくさんあると思います、これらの敗れるべきものが露出を恐れるため、あなたがそれらを言い出すのはすでにそれらを一掃と排斥し始めている。以上は個人の心得であり、不当なところは同修の慈悲なる指摘を期待する!真に修煉して、ともに精進しましょう!

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/9/14/84110.html