宗教信仰から法輪大法の修煉に入った
文/アメリカの大法学習者
【明慧ネット2004年9月5日】私の人生は割合順調に歩んできた。大学への進学や留学のことなどもすべてスムーズに進んできた。家庭も経済的に余裕があり、金銭の苦労も殆どなかった。アメリカに定住した後、仕事にも満足しているし、困ることは何にもなかった。私は17年前に洗礼を受けてキリスト教に入ったが、私の順調な人生はイエス・キリストの見守りによるものだと思っていた。教会生活の中ではさまざまな人が教会を利用して私利を図り、キリストの弟子に相応しくない事をするのを目にして困惑を感じることがよくあった。さらに聖書の中に記載されている神が天地を作り、人間や万物を作ったことを、牧師や長老たちがはっきり解説できない事もあった。それでも私は神に対する信仰をずっと固く守っていて、自分でもよくできた一人のキリストの弟子だと自慢していた。聖書の中に不二法門が強調されているので、私は気功と他の宗教に対してずっと強い警戒心と排斥の態度を持っていた。
しかし生活は永遠に変わらないものではなかった。離婚した後に、私は子供を連れて片親の生活を始めた。以前の友達は私が経済的にも社会的にも低下したのをみて、私から離れたり、或は軽視する態度を現すようになった。教会の信者仲間も、人間の暗い一面を現し、私の自尊心を酷く傷ついた。私はずっと過保護の下で生活してきた。離婚した後になって、人情というものはすべて金銭と社会地位によって左右されていることが初めて分かった。この現実による新しい発見は私を悲しませ失望感を味わわせた。そこで、私は心の中で家庭と事業を盛り返して、私を見くびった人と競いあってみようと誓いを立てた。そして、私は一生懸命努力して、すべての時間と精神力を最も速く利益が上がる金融情報の分析と投資にかけた。中にリスクのきわめて高い先物の売買も含んでいた。そして、間もなく私はまた自分の家を買い、自己顕示のために、1台の新しいBMW車を買って、とても誇りに思った。私は虚栄心が日増しに膨張し、もっと大きな利益を求めるようになった。その間に、私は自分のやり方に対して何となく不安を感じたことがあった。しかし周りの人を見ると、皆同じように求めているから、自分の得たものは神様からの祝福だと思って、心の不安を打ち消した。 交友関係が広くなるとともに、社会上層のアメリカ人と付き合うチャンスも増えてきた。彼たちは、より多くの利益を獲得するために、よくキリスト教弟子の名義で、信者間の兄弟関係を人との関係を広めるために利用している。このことに対して、私は非常に理解しにくかった。それに、彼たちの中にキリストの名義を掲げている詐欺師がいることなど思いもよらなかった。神様を冒涜する“勇気”を持っている人がいることを想像したくもなかった。しかし現在の社会は道徳観念が堕落し、人々は本当にどんな悪い事でもやりかねない時代になった。私は以前から人を見る目がなく、良い人と悪い人を判断する正しい基準も知らなかった。だから簡単に他人を信じる傾向があり、特に相手が“自分はキリストの弟子だ ”と名乗ると更に軽信になりがちであった。このようにして、私は混乱した価値観と個人の虚栄心の赴くままに賭博的な投資を始めた。そして間もなく全財産を失ってしまった。この強烈な打撃によって、私は茫然になった。私は神様に訊いた:どうしてこんなことになったのですか?彼たちはどうしてあなたの名義を借りて悪事をすることができるのですか?あなたはなぜこのようなことを起すことを許したのですか?しかもなぜ私の身の上で起きたのですか?!私は一時に驚愕、怒り、失望、困惑、無力さなどの感じが混雑していた。
このように私が人生の十字路に立て、茫然として行く道が分からない時、一人の法輪大法を修煉している心療の医者に出会った。彼の穏やかな心境、明晰な思惟、正直な態度に私は感動し、励まされた。彼は社会問題や人生問題に対しても深い認識があり、私が迷っていることを、彼は物事の本質から簡単に是非を見分けることができた。私がキリスト教の中で聖書を17年間学んだ結果と彼の法輪大法を9年間修煉した結果を比べた時、彼の人生や社会に対する理解は私の認識より遥かに深かった。このことから、私は彼が修煉している大法は私にとって少なくとももっと知るべき価値があるものではないかと考えた。
徐々に私は、彼の世事に動じない穏やかな心境、明晰な思惟、万事をうまく対応できる知恵、純朴善良の人格が全部法輪大法の修煉から得られたものであることが分かった。そして私は大法に対して格別の好感が生じた。それからは、彼が再び法輪功に言及する時でも、私は以前のような警戒心と抵抗感を感じなかった。今になって考えて見て、やっとこれが師父の慈悲であったことが分かった。もし相手が私の信頼した心理療法の医者でなかったら、また彼がキリスト教をいくらかでも知ってなかったら、そしてもし彼が知恵を持って私を啓発しないで、当時の私が理解できる程度の言葉で少しずつ法輪大法を紹介しなかったら、私が法輪大法に近づくことは不可能だったに違いない。
このようにして、私は制約と懐疑の心を持たずに、『転法輪』を一通り通読した。当然ながらこの本が私にもたらした震撼は言うまでもない。本の中には人としての目的が明確に説明されていて、私は初めて良い人と悪い人を判断する規準が分かった。聖書の中で答えが見つけられなかったたくさんの問題の解答がすぐ見つかった。振り返って考えてみれば、今までキリスト教の中での神様に対する認識はとても浅いものであった。イエスを信仰する本当の目的は、返本帰真のために心性を修することではなく、神様の護りを求め、内心の不安の拠りどころとし、富を授けてもらうためであった。神様を信じれば天国で永遠の命を得られることを知り、神様を信じれば平和と幸福を得られることを知り、神様を信じれば世人が得られない富を得られることを知っているだけであった・・・。この中には自我のためにという求める心が驚くほど強くあった。
キリストの弟子として、私は聖書にある神が福を授かることを承諾した一節をよく読んでいたが、イエス・キリスト様が言われた“神の国に行く人は、子供のようにならなければ、絶対に入ることを許されない!”という一節を見落としていた。天国の中の人は子供のように、純真で、私心がない人である。もし私達が今のように、七情六欲を持って、すべての人の心:闘争心、顕示心、嫉妬心、貪欲、色心、虚栄心、歓喜心、恐怖心、名利を求める心を持って、天国の世界に行くことが許されたら、それは笑い話ではないか!本当にそのようなことができたら、あの神聖な天国世界が汚い人類社会と同じものになるのではないか。神が天国に行く人に対して必要な基準があるとして、もし自分の私心によってその規準に達しなかったとしたら、それでもまだ神様の信者だと言えるのか?求めるべきではないことに執着する心や名利のために生じた闘争心などは、決して神の世界で許される心ではない。何度も内心の不安を感じたときこそ、まさにそれは神様の警告ではないか?私自身の執着は、宇宙の“真善忍”の特性から離れ、神様を離れ、神の啓示を無視したことであった。私が心の深い所に隠れている神様に対する不純な心を認識できたのは、『転法輪』を読んでからのことであった。私は再びこの法の偉大さに震撼させられた。
法輪大法が極めて高いレベルの修煉を指導する正法であることが分かり、私は法輪功を修煉することに決めた。法を得てから数ヶ月の間に、私は師父の説法を通読し、繰り返し『転法輪』を通読した。また初めてロサンゼルスの法会に参加した時、幸運にも慈悲なる師父にお目にかかった。そして師父の説法を聞いた時、内心に無限の感激が生じた。師父は私に人生の波瀾を経験させた後、法を正す後期に法を得ることを按排された。私は法を得ることの難しさを深く感じたと同時に、決して偶然なことでないことも感じた。法会での大法弟子達の修煉体験の発表は私に如何に内に向って探すか、また本当に自分を浄化することや心性を修煉して執着を取り除くことの素晴らしさを教えてくれたので、私は感動して涙を流した。法会に参加した学習者たちは、常人のような煩雑な挨拶言葉がなく、皆穏やかで、友好的に、暖かい和やかな雰囲気を呈しており、臨場の人々に大法の素晴らしさを感じさせた。
法を学び煉功が進むにつれ、私自身の変化をたくさん発見した。以前求めたものはそんなに大切だと思わなくなった。一時私の心を苦しめたことも、今になって見ればあまりにも愚かで笑ってしまうように感じた。子供たちを教育するとき、内心世界の優しさを大切にすることを教えるようになった。
徐々にたくさんの執着心を捨てているうちに、私は始めて平和な内心世界の本当の幸せを感じた。今の生活には以前の一時的な豊かさはないけれど、私の心の中には今まで感じたことがない充実感で溢れ、内心世界に今までにない明かりが光っている。それは永久の光である。
(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/9/5/83425.html) |