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山東省平度市大法弟子・趙明祥さんが迫害され死亡した更なる情報

 文/山東省大法弟子

 【明慧ネット2004年9月18日】1999年7月20日、江××は自分が法律を凌駕して、人に真善忍の修煉を教える大法と大法弟子をかって放題に弾圧し、迫害を始めた。大法弟子に対して“打ち殺しても罪でなく、打ち殺されたら自殺となす”という邪悪な命令を出した。不法警察と官員らは狂ったように大法弟子を迫害し、その手段は極めて残酷で悪辣、残忍で、無数の大法弟子を不具にしている。平度市仁兆鎮趙家管村の大法弟子・趙明祥さんは迫害されて死亡したその中の一人である。

 趙明祥さんは46歳であった。東趙家管村山の人々はみな彼が良い人で、利口で有能である事を知っている。法輪大法を修煉したため、1999年7月20日から青島市公安局に指名手配され、家に戻れなくなり、4年間路頭に迷っていた。2003年旧暦の12月30日即墨市瓦戈庄のわら山で死亡した。彼の遺体を見つけた村民によると、当時、彼は片足しか靴を履いておらず、ベルトもなくなっていた。(大陸の派出所の慣例では、人を捕まえたら、まずベルトを外す)。発見当時、まだ息があったが、午前9時か10時頃には息がなくなった。

 2004年5月25日、趙さんの家族は即墨市刑事警察大隊に遺体の確認と、受け取りに行った。警察は、趙さんは凍死した、飢え死したと言い触らした。家族は趙さんの遺骨を持ち帰ろうとしたが、警察に趙さんの遺骨はないと告げられた。親族が何度も要求して、やっと即墨営上火葬場から受け取ってくることができた。

 火葬の時間は2003年旧暦12月30日で、即ち死亡した当日であった。(一般的に無名死体はその場で、その時に火葬してはいけない。警察は迫害真相が暴露されることを恐れて、家族のいない状況の下で、急いで死体を火葬にして痕跡をなくした)家族が趙さんの写真を家にいる80数歳になるお父さんに見せたいと言っても、警察は趙さんのファイルに入れると言って、渡してくれなかった。彼らが保存している写真を見ると、趙明祥さんはひげがのび放題で、容貌はやつれていた。

 趙明祥さんは12月21日に法輪功の真相資料を持って、家を出た後、2004年5月25日までの間、ずっと何の便りもなかった。明らかに、彼は家を出たその夜、段泊嵐派出所が捕まえたのであった。趙明祥さんは拘禁されている8日の間、残酷な虐待を受け尽くし、気息奄々としていた。瀕死の状況の下で、不法の警察は責任から逃れるために、12月29日の夜、趙さんを瓦戈庄大通のわら山の側に投げ捨てた。村民が発見後通報したため、段泊嵐派出所は当たり前のように“無名死体”として処理した。

 趙明祥さんの遺体を火葬した後、段泊嵐派出所は、また綿密な按配をした。趙明祥さんの家族にたいして、偽証人・瓦戈庄村の于発奎に、「12月26日の朝、牛に与える草をとりに行ったとき、趙明祥さんがわら山の後ろにいるのを見た。趙さんは私の家で水を飲み、自分は法輪功学習者であると言いながら、彼の家族についても語った。」と言わせた。さらに、「12月29日の夜、また水を飲みにいき、その後、離れて行った。歩いていると体が揺れ動き、小さい石につまずいても転びそうだった。趙さんは北に向いて歩いて行った。」と偽証した。しかし、趙明祥さんは指名手配されて以来、ずっと極度の警戒心を保っていて、自分の実際の状況を誰にも言わなかった。于発奎が言ったのは全て派出所のコンピュータで調べた内容であった。死亡した現場から最も近い店の偽証人は、「この人はここで数日間、ぶらぶらしていた。彼に食物を与えても自分は法輪功修煉者で断食していると答えた。」と、こう言いふらした。みな知っている通り、断食は、不法に拘禁されている大法弟子だけが迫害を制止するためにするのである。

 また一部の敢えて真実を語れない人は「この事件はもうやめたほうが良い。どうせこの社会はこれほど乱れているから。」と言った。この全ての内容は即墨市段泊嵐派出所所長が言った“餓え死しだ、凍死しだ”と一致するのである。

 しかし、うそはほっていても自ら崩れ去るものである。趙明祥さんの遺骨を埋葬した後、東趙家村での土地を割り当て時に、趙さんの家族は趙明祥さんの戸籍がすでに消されていることに気がついた。村の幹部らに聞くと、平度市公安局政治法律課課長の石衛兵が彼らと一緒に酒を飲んだときに、「趙さんは死んだ。」とはなしたと言った。2004年の初、仁兆派出所副所長馬も、この村の幹部に、趙明祥さんの遺骨は持ち帰ってきたのかどうかと聞いた。またある日、派出所のもう一人の人はこの村の幹部に趙明祥さんの遺骨を埋めたかどうかと聞いた。しかもその上、いくつか当時わけがわからない話をした。石衛兵はまた東趙村の幹部に12月29日に即墨市段泊嵐派出所で趙明祥さんに会ったと言った。明らかに、趙明祥さんの死因について、平度公安局と仁兆派出所は既にはっきり知っていた。

 趙明祥さんの家には80数歳になるお父さんがいる。息子が迫害されて死亡したことを知り、お父さんは悲しみのあまり、1日中涙をほろほろと流した。食事もろくに取れず、しんから寝ることもできなくなり、もともと元気だった体は日々痩せていった。訪れてくる人に懐古の気持ちを訴え、「息子は4年も路頭に迷って、飢えと寒さに悩まされ、びくびくしていた。いつか良い日が来て、息子に会えることをずっと待ち望んだのに、意外にも待ち望んだのは息子の骨灰であった。」と話している。

 趙明祥さんの2人の息子と娘は、未だに敢えてお父さんが死んだと信じない。死んだと言っても遺体がなく、お父さんが残したどんな遺物もないので、いつかは、お父さんが帰ってくるだろうと思っている。

 以上に述べた内容はかいつまんで調べたことで、更に詳細な状況については更なる調査が必要である。趙明祥さんの迫害死因について知っている善良な人々が詳細な情報を提供することを希望する。道義は明らかで、善悪には必ず報いがある。大法を支持し、善を持って大法に対する人は必ず福をもらう。しかし、江氏政治ころつき集団とそれに追随して大法弟子を迫害する輩は必ず天理の懲罰を招く。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/9/18/84489.html