不思議な物語—文字を全く知らない肺結核末期患者が法を得て≪転法輪≫を通読、全快
【明慧ネット2004年9月16日】私は廉忠平と申します。山東省平度市張舎鎮廉家村に住んでいます。今年52歳です。私は2002年4月から法輪大法を修煉し始めました。法を得る前は、私は重症の肺結核を患っており、医師から治療の施しようが無く生命に危険のある重症患者と診断されていました。私を救い、私に新たな生命を与えくださったのは慈悲なる師父でした。
下記に、私が法を勉強してからの心身の変化と、更に多くの人々に法輪大法の真相と不思議さについて述べ、更に多くの縁のある人が法を得て、法を勉強し、救われ済度されることを願います。
それは1997年の前半でした。私は常に熱があり、咳をすると血を吐いていました。当時、喉に炎症があると思い、あまり気にしていませんでした。消炎剤を飲んでも効かず、病院へ行って検査をしても何の病気か分りませんでした。その後、病状がどんどん悪くなり、高熱は下がらず、血をよく吐きました。胸が苦しくなり、息も詰まるようになり、やっと病状の深刻さに気がつきました。家族に促され病院で精密検査を受け、CT検査の結果、肺結核末期と通告されました。医師は娘に伝えました。「あなたのお父さんは肺結核の末期です。とても深刻な状態なので、早く入院して治療を受ける必要があります。」こうして私は市の肺結核病院に入院し、治療を受け始めました。入院して40日ほど経って、病状は抑えられました。退院して家で引き続き治療を受けました。その後にも何回か再発しては、入院していましたが、病状はますます悪くなり、発病してから二年経過しました。
1999年の春から、病状は悪化し始め、一日中ずっと血を吐き続けました。激しい痛みで何回も気を失いました。その後になると、吐くのは鮮血ではなく、肺のぼろぼろになった組織でした。病院で更なる検査を受けると、両肺とも既にクモの巣のような状態になっていました。一番大きい空洞はピンポン玉大でした。肺全体はほとんど全部ぼろぼろになってしまっており、病院ではもうこれ以上治療できないので、以後のことを準備するようにと医師より伝えられました。ここ4年あまり、息が苦しいので、横たわって寝ることはなく、布団に寄りかかり、半分座った姿勢で寝ていました。床に降りることが出来ず、薬を飲む時も、注射される時も、大小便も、妻や娘の世話をなりました。入院して治療を受けるお金がなく、家で薬を飲み、注射するしかありませんでした。病気で痩せこけて、背が175センチの私が体重は僅か35㎏になっていました。医師さえも注射に来ることを怖がりました。この数年間、私のために苦労し、心配している妻と娘を見て、更に一日が一年のように長く感じ、生きていることが死ぬことよりも辛く思えるようになりました。絶えず苦悩している自分は、死ぬ方がましだと思い、自殺を図りましたが、いつも家族に発見され、願い通りにいきませんでした。
ちょうどその頃、妻と長女にも絶え間なく咳が出る症状が現れ、病院で検査すると、私と同じ病気でした。正に災いは重なるもので泣きっ面に蜂でした。このことは私にとって、青天の霹靂で、すぐに気を失ってしまいました。気が付いた時、自分の人生の行き止まりにまで既に来ていると思いました。泣こうとしても涙は無く、悪魔が私を絶望の淵に追いやったようでした。
死線をさ迷っていた2002年4月23日、私はこの日を一生忘れることができません。この日から私の運命は変わり始めました。同修が我が家を訪れ、法を勉強するように勧めてくれました。法輪大法を紹介された時、全身がほかほかと温かく、とても気分が良くなり、心が非常に綺麗に澄んできました。同修は師父の説法の録音テープと≪転法輪≫を持ってきてくれました。師父の説法を聞いて、2日目に血を吐かなくなりました。病状は少しずつ好転し、法を勉強して7日目の夜、寝ようとした時、背が高くて体の大きい人が私を非常に美しい所へ連れて行き、師父に会わせてくださいました。私は非常に嬉しく思いました。師父は一言も話されず、私の胸を指で一節一節下へと測っていかれました。師父の指はほかほかとして、とても心地よく感じました。心では師父が新しい肺を下さるのではないかと思い、とても感動しました。夢で師父に会った翌日、私は床に降りることができました。絶え間ない法の勉強と煉功を通じて、私の体はますます大きく変化し、思想境地も絶えず高まっていきました。ベッドから降りて、歩行練習をしました。第一歩から始め、五歩、十歩、少しずつ遠く歩けるようになり、ある日、私が家を出ると、私を見た隣近所の人々はみな驚いてぽかんとしていました。“廉忠平さんが家を出て歩くなんて?!” 私が法輪大法を学んでから奇跡的に生き返ったと聞き、みな口を揃えて:“法輪大法は本当に不思議だ。本当に素晴らしい。”と称賛しきりでした。
4ヵ月後のある日、同修は私に5キロ離れている同修の家に行き、一緒に勉強し、交流しようと約束しました。当時私はとても迷いました。体が回復したばかりであり、それほど長い距離を歩くことはできないと思っていました。家族もみな反対しました。しかし私は信念を固め、必ず行くと決心しました。帰路の途中で、誰かが私を後押ししているかのように感じ、少しも疲れていません。心から嬉しくてたまりませんでした。家に帰り、師父の写真の前にひざまずいた時、涙がほろほろと流れました。感慨無量で、心の底から師父に感謝し、大法に感謝しました。大法に2度目の命を授けられ、偉大で慈悲なる師父は私を死線から救ってくださいました!
私は貧しい農家の生まれで、学校に通ったことがありません。法を勉強する最初は、師父の説法の録音を聞くか、本を家族に読んでもらうかでした。集団で勉強をしたある日のこと、同修らは順番に師父の説法を読んでいきました。私の番になると字が読めないので、私の後ろに座っている同修が引き続き読むことになりました。その時私はとても辛く感じました。師父の説法を読むことができれば、どんなに良いかと思い、必ず≪転法輪≫を通読しようと決心しました。本を持ち出して見ると本は字で一杯、何と読むのか分りませんでした。私は師父に教えてくださるようお願いしました。この一念が出てから、本をめくると、これらの字はどこかで見たような感じがしてきました。1ページを読み終わると読めない字は何文字かだけで、ほとんど読めました。夜になると、師父の法身が字を一行一行指しながら私に教えてくれました。私は昼夜、絶え間なく法を勉強しました。4ヵ月経つと、文字一つも知らなかった私が、≪転法輪≫を通読できるようになり、師父のほかの説法も読めるようになりました。
大法が私の身に顕した人間世界での奇跡はわれわれ廉家村を驚かせました。村中の人々は病院から死刑判決を下された危篤患者の私が、大法を学んで生き返ったことを知っており、文字一つも知らなかった私が≪転法輪≫を通読できるようになったことを知っています。大法が私と私の家庭を救ってくださいました。師父のご恩は言葉では言い表せません。師父の教えをしっかりと心に刻み、常に法を勉強し、常に精進するしかありません。同時に、私と妻、娘は私自らが体験した法輪大法の不思議さを人々に話し、法輪大法は万年経っても永遠に会えない高徳の大法であると伝えています。どこへ行こうとも、どこででも伝え、人に会えば誰にでも伝え、そしてずっと伝え続けていきます。人々に真相をはっきりと説明し、邪悪の嘘を暴き出し、更に多くの人々が法輪大法を理解し、縁のある人が法を得、法を学び、大法の修煉の道を歩めるよう努めます。
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/9/16/84319.html)
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