日本明慧


元安徽省の公正な官吏である呉雲瑞さんが四年間の冤罪による投獄を受けた後再び拉致された(写真)

 【明慧ネット2004年10月13日】呉雲瑞さんは安徽省豪州市の住民で、1956年11月生まれ。小さい時から雷鋒を模範とし、人となりも非常に誠実であった。1975年の“上山下郷”運動により農村で労働するようになりました。1977年に大学入試が回復されると、彼女は優秀な成績で上海紡績大学紡績工業系に入学し、四年後に工学士の学位を獲得しました。その後は職場で厦門大学経済学修士課程を受け、経済学修士の学位を獲得しました。

呉雲瑞さんが不法に四年間も監禁され、出獄した後の写真

 大学を卒業したあと、呉雲瑞さんは安徽省阜陽紡績会社で、技術関係の仕事をしていました。1988年にその郷里である安徽省豪州市が紡績会社を設立したので、人材の導入の一環として、彼女を安徽省豪州市紡績会社の副社長に任じました。

 1990年、呉雲瑞さんは党外副市長、女性市長の候補者として市長の選挙に立候補し、続いて市の指導者階層に転じました。1990年から1995年まで、安徽省豪州市副市長を勤めていました。対外面において、商人および投資を引き寄せる管理、外部商事における土地使用権の批准、大学生分配などを取り仕切っていました。仕事において、かなりの成果を上げ、市民に賞賛されました。副市長を務めた6年間の間に、彼女の弟が事故のため精神分裂になりましたが、彼女は一度も職権を利用して便宜をはかり、その弟の妻の仕事を変えさせることはしませんでした。

 1995年、安徽省が副庁級の公務員を公募し、呉雲瑞さんが応募しました。三回の選別、競争を経てから、呉雲瑞さんは優秀な成績で採用され、安徽省旅行局に入局しました。1995年から1999年まで、安徽省旅行局副局長を勤めていました。彼女は常に清廉で公に奉仕し続けていましたが、修煉を始めてからなおさらそうであった。“真善忍”の法理をもって自分の言動を厳しく要求していました。そのために後から来たある食品会社の社長は彼女を「一方の正気もたらしてきた」と賞賛しました。後に迫害され家財を没収されたときも、警察は、彼女の家から7000元の現金しか見つけられなかった。参与した警察も「私たちは清廉で公正な官吏の家財を没収したようだ」といった。

 1999年12月に、法輪功のため北京で陳情したため、1999年12月26日に天安門広場で拉致され、前夜、地元で宿泊した時の20元の領収書を検査されて、公安に陳情の証拠として取り挙げられた。その次の日には、本人が合肥市にも帰っていないし、本人の意見および状況をも聞いていないのに、また、なんらの調査もないにも関わらず、安徽省旅行局は呉雲瑞さんの行政職務を解雇した。28日に彼女に関する批判する文章が『安徽日報』の第一面に報じられ、それ以来、安徽省は法輪功に対する大規模な迫害を始めました。安徽省旅行局局長の高蔚青が江沢民政権の迫害運動の前衛として、呉雲瑞さんに与えた驚くべき迫害には逃れることのできない責任がある。

呉雲瑞さんが合肥市に帰ると、まず、合肥市看守所に監禁されました。その後、残酷にも4年の実刑判決を処せられました。それもただ公民に賦与された合法的な陳情の権利を履行しただけである!後に宿県安徽省女子監獄に移転されて監禁されるようになりました。監禁されている間に、転向することを拒絶したため、虐待をうけ、また彼女の母およびその他の親族との面会する権利をも奪われ、ただ姉と息子のみしか面会を許されませんでした。監獄方は10人の犯罪者たちを使って毎日昼夜をわさず彼女を監視し、彼女が他人と会話することを許さずに、もし誰かと会話しているところを見つけられると、その人はすぐに警察に攻め立てられるようになる。たとえ警察でも彼女との随意の会話を許されなかった。

 監獄の中で、彼女は省委書記の王太華に一通の手紙を書き、彼女への非人道的な待遇および不正な処遇を訴えたが、なんの返事もありませんでした。家族も彼女のために弁護士を雇ったが、監獄は弁護士と彼女との面会を拒絶し、彼女の司法における権利をも剥奪しました。最も悪辣な事件は2003年の9月におきました。監獄は法輪功学習者を強制的に転向させるために、当時の安徽省労働教養所の孔姓の課長が転向チームを組織し、?姓の副監獄長(女)および馬姓の書記が司会をとり、転向していない法輪功学習者がみな強制的に転向させるために送られてきた。呉雲瑞さんは出獄したのちその当時の情景をこのように述べた:

 「私たちのようなまだ転向していない学習者たちはそれぞれ個別の部屋に分けられました。警察は部屋の中にはいません。関係のある指導者は廊下の片端に座って、所謂“転向幇助人員”に命じて私たちを任意に虐待していました。彼女たちは、まず私に転向するように威嚇しました。私は彼女たちに『あなたたちも昔修煉していたじゃありませんか?(法輪功は)邪教でないのを知っているのに、どこに転向するとでもいうのですか?』と聞いた。彼女たちは『私たちはすでに数百名もの学習者たちを転向させた。すでに罪を犯した。その罪責は負いきれない。私たちはどうしてもあなたを強制的に転向させ、私たちと一緒にこの罪の罪責を背負うようにしてやる。転向しないなら、自殺するまで追い詰めてやる。そこで法輪功にその罪名を着せる。もしあなたが自殺しないなら、私たちがあなたに強要する。たとえ殴り殺した場合でも自殺とみなすのさ。前に、たくさんの殺された人は全部自殺とみなしたからな』と言いました。」

 そして彼女たちは私を殴り始めました、私は部屋の中で大きな声で「私は決して自殺しません!何故自殺しなければならないのか!?」と叫びました。そして私はトイレにいくと要求し、大声で現場にいる監獄警察を呼び、彼らに人権、国家の法律を遵守するように要求しましたが、彼らに押し返されてまた続けて殴られました。私は絶えずに大声で叫んでいました。それから孔科長が中に入ってきて、私は彼に「あなたは労働教養局からきた指導者です。あなたの前で私は殴られています、これは許されるのでしょうか?」と聞きました。彼は「お前ら法輪功は殴らないと転向しないからさ」と答えた。所謂“転向幇助人員”も「私たちは政府に呼ばれてきた。警察は人を殴ると法を犯すことになるが、私たちは人を殴っても違法とはならない」と言いました(その当時のこれらの人は毎月4000から5000元の給料がもらえて、その上、食事は配給されている)。私は再び孔科長に「あなたは法の執行人です、彼女たちは何の資格があってここにいるのですか?」と厳しく尋問した。孔科長は手を振って殴るのを止めさせてから、そこを離れました。

 次の日の午後に、彼女たちは続けて私を殴るようになりました。その晩に私は殴られて気を失っていました。その他の犯罪者の話によると、私は持ち上げられて牢屋に送られたと。私の脳は非常に激しい衝撃をうけたため、その後の2、3ヶ月の間は精神が非常に緊張していて、正常でない状態に陥っていました。季節は寒くなって、他人が全部厚い服を着るようになったのに、私は夏の服装のままでいました。

 出獄してから数ヶ月の後、私は始めて調整されて元に戻れました。

 呉雲瑞さんは大法を修練してから常に非常に精進し、堅く大法を信じていました。邪に悟り転向された者が監獄に行き彼女を転向しょうとするときに、却って彼女に正されました。彼女は2003年12月27日に正々堂々と監獄を出ましたが、最近彼女はあるメディア関係の会社での仕事の要請をうけ、郷里に戻って業務を取り計らい、帰るときに{2004年10月11日}、安徽省豪州市の駅で突然再び拉致され、彼女を送っていた弟の妻および数名の合肥市の同修たちと一緒に拉致されました。

 四年間の監獄での苦難を経験しつくしたにも関わらず、悪人どもは依然として彼女を見放そうとせず、最後の狂気を放ち、私たちの同修を迫害しています。私たちは正念を持って加持し、また国際社会での早急な救援を求める!この清廉で公正な良い人を救い出すために!



(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/10/13/86547p.html