日本明慧


歯医者が法を正す路での体験を語る

 文/台湾弟子

 師父今日は、同修今日は。私は陳国峰と申します。今日私は過去五年の修煉体験を語ろうと思います。適当でないことがあれば、訂正下さい。

 1999年10月、私は初めて嬉しくも法輪大法に巡り逢いました。それ以来私は無知な人生に"さよなら" を言いました。師父は言いました、

 "全ての大法弟子は、真に自分自身を認識し、自分の道をしっかり歩んで下さい"(2002年ワシントンDC法会における説法)

 法を証し続けたこれらの年月を顧て、私はそれを次の二点から話すことが出来ます。

 1.歯医者としての立場を利用し、海外にて法を正す活動に参加する

 私は自分の診療所を持つ歯医者です。このことは私に真相を伝える為の多くの便宜を与えました。しばしば様々な学校、政府機関、企業、テレビ局等で、講演するよう頼まれました。私はまず人生や心身の健康について話し始め、それから話題を法輪大法の伝播と迫害の真相へと、持って行くのが常です。最初の頃は小道具無しに話すだけでしたが、後になってコンピューター・グラフィックと映画を用いることを学び、それは生き生きとした良い効果をもたらしました。

 更に診療所の内外に法輪大法のビラを貼りました。多くの患者は待っている間にそれらを読み、法輪功について私に質問するのです。それは真相を伝える良い方法です。例えば県の教育部長は、私の古くからの患者です。一度は治療が済んでから、私は真相を伝えて彼の法輪大法に対する誤解を解くことが出来ました。空いている時間に、資料を郵送する用意をしたり、コンピューターを用いて大法情報を他の学習者に送ったりすることが出来ます。私は単に歯医者であることが私の目的ではないと、悟りました。歯医者である本当の目的は、大法を証し、仕事を通じて真相を伝えることにありました。

 治療は予約制なので、大法の活動に参加する為に、診療時間を巧く按配することが簡単に出来ました。これらの活動に参加することは、実に修煉を高めるのです。活動に参加したり、責任者になったりする過程で、同修と共に居る時は、いつも私の執着を見つける良い機会です。旅行や宿舎等活動の按配をする時は、必ず私の私心や執着に触れるのでした。例えば、短期の活動だけに参加したい為に、一週間以上診療所を閉めることが出来ないという、言い訳を作りました。一昨年、江沢民の近距離で正念を発する為に、17日間ロシアとアイスランドへ行った時、私はこの執着を突破しました。

 それ以来私は自我を放下し、大法が必要としているものに焦点を定める努力をするようになりました。法を正す過程の推移で、多くの活動が各国の学習者の協調を必要としています。それで私はよく仕事の融通性を利用して、外国へ洪法に行きます。米国、ヨーロッパ、オーストラリアやその他のアジアの国々にまで旅し、各地のグループの煉功や、法会、パレード、観光名所での講真相に参加することが出来ました。又師父の教えである、常人社会での仕事を立派にこなし、何処においても良い人間であるよう努力して来ました。ですから、大法の活動がある前後には残業をし、患者が影響されないようにしました。これら全ての過程は私の修煉と、考えと行動の正しさの試験でした。けれど、これらの体験から私は、大法弟子達は一体であり、各弟子は粒子のようなものであることを、発見しました。もしも一粒子が純粋さに欠け、隙があるなら、全体としての力は弱まります。全ての粒子が高度に純粋であってのみ、金剛不壊の体を造ります。

 2.様々な方法で講真相し、協調をもって向上する

 近年において私は多くの眞相を伝える方法を学びました。例えば、トーク・ショーに参加する、ファックスやイーメールを送る、大法のウエブサイトの記事を書いたり修正する、ラジオ放送のゲスト・スピーカーになる、講眞相のテレビ番組作成に参加する、等々。これらの方法を用いる目的は衆生を救うことにあります。これらの事を行う過程で、私の多くの常人の心が暴露されました。例えば、巧く行なったり、事がうまく運ばれていると、歓喜心、顕示心理 等が露出します。困難があると不満で逃げたくなります。更に同修と衝突があると、相手をまず責めました。

 師父は言いました、「皆さんが注意するべき問題があります: あなた方は法を証明しているのであり、自分を証明しているのではありません。大法弟子の責任は法を証明することにあります。法を証明することは修煉であり、修煉の過程で取除くものは、自我への執着以外ありません。無意識であるにしても、自己を証明する問題を助長することはできません。」(非公式訳、アジア・パシフィック地区の学習者との会議にての説法)

 仕事と競争への執着はこの神聖な大法の仕事を、成功か失敗かで口論する常人の事に変えてしまいました。これらの試練を通じて自分の威厳を高めることを、私は忘れていました。その代りに私は修煉の根本的な意味を完全に見落としていました。数年に渡って多くの深刻な教訓があったにもかかわらず、私はそのことを忘れてしまい、同じ間違いを何度も犯してしまいました。

 数年前私は勉強会を始めましたが、まもなく責任者として多くの仕事をどんどん受け入れ始めました。最初は小地区の責任者として、活動の詳細を計画したり連絡したり、資料を送ったりするだけでした。それから私は様々な活動の責任者となり始め、ごく自然にそこにはより多くの仕事が待っており、多くの会議がありました。もちろんこれらの話し合いを通じて、私達は智慧を集め、活動の内容を強化し、計画を完璧にすることが出来ました。しかしながら私の変らぬ問題は、自分のアイデアを諦めることが出来ず、いつも自分のやり方が最善であり、他の意見は取るに足りないと思っていたことでした。そのような執着が大法に必要のない損失をもたらしました。私は寛容であることが出来ないだけでなく、他の人を理解することさえ出来ませんでした。私はそのような挑戦を受け入れない権威を感じさせ、全く常人と同じ態度でした。後になって、私のアイデアがうまく働いたと分かるととても嬉しく思い、もう一つの執着が加わったのでした。

 暫く責任者として仕事をした後、私は自分が他の同修達よりも上であると信じるようになり、常に自分が先に行ない、人の意見を聞く耳を持ちませんでした。私達は間違いに気付くと、それを訂正することが出来ます。だから師父が言った、自分を同修達の中に置くという事の認識に加え、自分の私心が大きく、この執着を除く為に私は責任者になって、他の人に仕える機会を利用すべきであったと悟りました。「大法には名も利も官もなく、ただ修煉あるのみです」("猛撃一掌" 精進要旨)

 さて私の最近の問題について語りたく思います。私自身良く行なわなかったのですが、この問題を語ることにより、同修達の助けとなり、一体としての全体を助けることを望んでいます。

 A.安逸を求めて法の勉強をしっかりせず、煉功を怠る

 修煉の初期において、名利情を放下するべき時に、私はしっかりした基礎を築かず、結果として私の法を正す時期の仕事に妨害が起きました。私はまだ家族や友人に対する情に執着しており、その為にやる事において公正でありません。まだ飲食、男女、その他の常人の必要に関し、正念をもって対処出来ないでいます。未だに実情を無視して大きい事や成功を熱望します。その結果、時に私は実質に構わず、一方的な注意を払います。これらの問題の原因を追跡すると、全ては法の勉強を重視していないという事になります。グループでの勉強にしろ、毎日の勉強にしろ、私はもっと深い内涵を見つけることを求める心に染まって、法を読んでいました。

 最近私は法の勉強において躓きました。日々の大法の仕事で忙しく、法の勉強の為のエネルギーが残っていませんでした。内面を見て分かったのは、私が平静な心で法の勉強に集中出来なかったのは、自己満足に陥った為でした。私は法を熟知しており、どの頁で師父が何を言ったかも覚えており、それ以上深い内涵はもう無いと信じていたのです。これら全ては、追求することをもたらした、私の法の勉強に対する間違った心態が原因でした。それから私は自分の心態を調整しました。今では法を読む時は、毎回初めてであるかのように読みます。師父が私の面前に居るかのように敬意をもって勉強します。それからは丁度師父が言ったようになりました、"柳暗花明又一村" (転法輪第九講)

 師父は言いました、"皆さんの正念や、やりたい事の全ては皆法から来ています。ですから、いくら忙しくても、法の勉強をおろそかにしないでください" (2002年フィラデルフィア法会における説法)

 だから私は今後どんなに大法の仕事や眞相を伝える仕事で忙しくても、平静な心で法の勉強をする基準を下げることはしないと誓います。

 私はしばしば、"昨日は講眞相で忙しかったから、今朝は起きられない" という言い訳をもって煉功をしないことを慰めて来ました。やがては朝煉功の為に起きないことが、お決まりになってしまいました。大法の仕事を、自分の安逸を求める心を隠すことに利用していることは分かっていました。毎日私はよく働き、自分から進んでやっているように見えましたが、法の勉強と煉功を怠った為、以前よりもエネルギーが減り、夜には眠気に勝てませんでした。講眞相にだけ注意を向け、煉功を怠りました。表面的には、多くの仕事を買って出ましたが、本質的な修煉から脱線しました。まるで方向を失った回転駒のようで、規則正しく回転する歯車には及びませんでした。

 B.法を用いて全局を見ず、病業に正しく対処出来ない

 何年もに渡り、私は殆んど病業というものがありませんでした。同修の病業については、私は法理に基づいて多くを言うのが常でした。しかしそこには、同修に対する慈悲の心が欠けていました。時々私は見物人のような冷淡な態度さえ取りました。ところが数ヵ月前、私の首が突然動かなくなりました。二日間横になり、動くことも出来ず、木像のようでした。首を動かそうとすると、ひどい痛みがありました。初め私は温湿布し、一時的には良くなりました。法の勉強と煉功を中断してはいけないと、気付いてはいましたが、苦痛軽減への望みに執着していました。それからそれが邪悪の妨害であることに気付きました。闘争心と恐れをもって正念を発しましたので、この魔難を正しく通過出来ませんでした。実は師父はすでに言ったのです、

 "去る一年間に、学習者の自身の業力、法に対する認識の欠如、難の中で放棄できなかった執着、関門を乗り越える時の辛さの中で、正念をもって対処することができなかった等々はみな、邪悪勢力が迫害を加重したことの主な原因であり、邪悪勢力が大法を破壊する根本的な口実でもあります" ("最後の執着を取り除く" 精進要旨)

 今では他人の意見を受け入れることが出来るようになって来ましたが、話し合い中妥協が必要な時、私の古い癖がまだ出て来ます。これらの殆んどは即座に成功させたいことから起きます。講眞相を全面的にしませんでした。例えば、私はしばしば一つの仕事が他よりも重要であると信じ、その仕事を補充出来るはずの他の事を無視しました。又国内と国外、北米と台湾等々を、無意識のうちに区分けしていました。仕事を細かく小項目に分けて、どれがより重要であるかを見るようにしていました。

 一度座禅している時に、突然私は自分がオープンで正直でなければならないと、悟りました。この悟は私に修煉の全く新しい認識と意味をもたらしました。大法は私達の心を開き、山のような執着が見えるようにします。自我を放下し、自己本位主義から脱し、法を正すことを全体的に思考する方法は、法の勉強しかないと私は信じます。

 以上は私自身の隙と、良く行なわなかったことの話です。同修がこれらを参考にし、圓容不壊の一体となることを望みます。現在過ぎ去る日々の一日一日が、法が人間世界を正す日に近づきます。そして法を正すことで、師父を助ける日が、一日ずつ少なくなります。時間は緊迫しており、私達は自分を緩めずより精進しなければなりません。さもなくば間に合いません。だからこの万古の機縁を大切にし、常に何処においても大法を第一にしましょう。

 結末に師父の"大ニューヨーク地区法会での説法(2003)" にてのお言葉を共に学びましょう。

 "自分の修煉、自分の向上、邪悪の中で法を証明し、衆生を救い済度すること、堅い決意で歩むべき道をしっかり歩むことこそ、最も重要なのです"

 師父有難うございます、皆さん有難うございます。


 2004年10月16日




(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2004/8/17/81965.html