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文/日本大法弟子 【明慧ネット2004年10月12日】かつて日本で数年在住していた李雪微さんは法輪大法を信仰するため、2000年2月に帰国して親族を訪れる際に、ただ「日本にある法輪大法」という小型新聞を持参していただけで、不法に監禁され、恐喝され、不当にそのパスポートを取り上げられた。そのため娘と日本にいる夫と再会できなくなった。4年にもわたる各種の迫害の後、2004年9月21日に不法に7年の重い実刑判決に処せられた。今李雪微さんはまだ告訴の手続き中にある。 この間に、李雪微さんの友人親族たちも巨大な精神による圧力に耐えていた。夫は多額の借金の情況下で、さまざまな困難を乗り越えて日本から妻を救出するために帰国した。しかし中国大陸では、法輪功に対して法律はなくなったも同然、公正のかけらもない。江沢民政権が国家の憲法および法律を蹂躙する恐怖に満ちた高圧な迫害政策も“法律”となってしまった。 李雪微さんには幼い6歳の娘がいる。いつも母が早く帰ってくることを願っていた。時には母を偲んで泣き出すが、大人たちにはそれを見せたくは無かった。彼女はいつも「母さんが帰ってきたら、母さんと一緒に日本にいって父さんを探しに行く。私たち三人はもう離れたりしないわ」と言った。 李雪微さんは35歳の女性幼稚園教師である。彼女は賞賛の声の中で成長してきた青年である。彼女の外見は美しく、その心は更に美しい。学生の時に彼女は常に“三好学生”“優秀幹部”などの褒賞を受けていた。仕事をし、そして家庭を持つようになってから、特に法輪大法を修練してから、正に人々に賞賛される良妻賢母になったのである。日本に行き団欒することのできない情況の下でも、彼女は困難を乗り越え、幼い娘を連れてお祖母さんの親孝行しに行く。またいつも農村にいるお爺さん、お祖母さんを見舞いに行く。特に新年や節句の日のたびにいつも忙しかった。 李雪微さんの夫は1990年から日本で仕事をはじめ、李雪微さんは1993年に日本に行き愛知県の儀谷市に在住するようになった。一家は日本で落ち着いて生活し、愉快に働いていた。しかし天には不測の風雲があり、1996年に李雪微さんは突然重い肺結核を患い、常に血を吐いていた。検査の結果として肺には穴が発見された。そこで中国大陸に戻り、治療を受け、いろんな処方を試したが全く効果は見られなかった。そこで彼女が法輪大法を修練してから、体は奇跡的にも回復した。そして日本に再び戻ってきた。 1999年7月に、中国江沢民政権は広大な民衆が法輪大法を修練して心身ともに受益し、そして社会にも益をもたらしたという事実を無視し、残酷にも真善忍を堅く信じている人民に対してナチス的な弾圧による迫害を行った。この日本で数年も在住していた一家三人もこの厳しい迫害からのがれることができなかった。2000年2月に李雪微さんが大陸に帰国して親族を訪れる際に、ただ「日本にある法輪大法」という小型新聞を持参しただけで、威海市公安局環翠分局の悪徳な警察である劉潔に騙されて分局に行き、その場でパスポートを取り上げられた。彼女が次の日にパスポートを取り返しに行くとき、本人も拘留され、不法に看守所に15日も監禁された。釈放されたあと、威海市国家安全局の隆林およびもう一人の人が家に来て、李雪微さんを恐喝し、「パスポートを取り返し、日本に帰りたければ、必ず安全局のために働かなければならない」と強要した。 李雪微さんはそこで正当な道理を踏まえて厳しく不法な人員に「法輪大法には秘密がありませんわ。私の知っていることならあなたたちに告げますが、あなたたちに強要されて何かをすることは不可能です。私は日本に帰らないとも、決して特務なんかになりません!」と言った。 その後、李雪微さんがどんなにパスポートを求めても、不法な人員は彼女にくれなかった。長春市に居住してから、2000年6月に、李雪微さんは再び山東威海市にパスポートを取り返しにいった。今回彼らはパスポートがすでに吉林省公安部に移転されたといった。そこで李雪微さんが吉林省公安部に行きパスポートを取り返しに行くとき、彼らに取り上げられたといった。このように李雪微さんはもう日本に帰れなくなった。それはまたそばにいる2歳の娘のパスポートに影響を与え、日本にビザを申請することができなくなったためそのパスポートも無効になった。このようにして楽しくまとまっていた一家は日本、中国大陸の二つに分けられて、団欒することができなくなった。 この情報を聞いた後、李雪微さんの夫が日本で妻と娘を思い、巨大な精神による圧力および苦痛を付きまとわされた。心身ともに疲れ、そのため商売も失敗し、数十万元もの経済的損失を被った。今ではただアルバイトして返済することしかできなくなった。本来なら夫は1990年からすでに日本で仕事を始め、一家三人はすぐにでも日本の規定により居住権をもらえたはずだった。まさか一家が中国の不法な人員によって離散させたとは誰も思えなかった。 どうすることもできない情況の下で、行き場を失った李雪微さんは2001年8月1日に天安門広場に行き法輪大法の潔白を実証し、また自分の冤罪をも晴らした。しかしその後に李雪微さんは拉致され、いろんな救助に加えて身体状況の極めて悪い情況の下で釈放された。 しかしその二年後に、更に怖い事件が発生した。2003年11月17日の夜6時ころ、李雪微さんは数冊の大法の書籍および空のディスクを十数枚もってもう一人の大法弟子である吉大二院の薬剤師の黄玉?さんを尋ねにいった。その場ですでに黄さんの家で待ち伏せていた長春の悪徳な警察5人に拉致された。主要な犯人は長春市公安局国保支隊、南関区公安分局および全安派出所の悪徳な警察だった。彼らは李雪微さんを拉致して大法弟子を極秘に迫害する場所——市区から遠く離れた浄月潭のある建物の地下室に連れて非人道的な残虐刑による虐待を行った。 恐怖な雰囲気を作り出すために、不法な人員は電気をつけないで、蝋燭を使っていた。その当時の気功は非常に寒くなり、悪徳な警察らは綿入れのコートを着て2時間交代で残虐刑による虐待を行っていた。しかし李雪微さんはただ薄いメリヤスのシャツおよび裏をつけない服しか着ていなかった。邪悪な輩どもは李雪微さんを殴打するに留まらず、また彼女を吊って、煙で燻し、ビニール袋で頭を覆って酸素を絶っていた。ビニール袋を掛けるときに悪徳な警察はまた李雪微さんのおなかを強く打ち、彼女の窒息する苦しみを更に強くした。それ以外に、警察はまた“ジェット式”の方法で彼女を虐待した。暴力の加害者は長春市公安局国保支隊を主として、南関分局の馬姓の足の不自由な人も非常に邪悪だった。李雪微さんをめった打ちするとき、またすでにきつく締められていた手錠の間にビンを挟もうとした。 2004年8月20日に、残虐刑をなめしつくした李雪微さんはその監禁期間を9ヶ月も超過されてから初めて不法による法廷の審判を受けた。弁護士が国家の法律条文の有力な弁護の下で、案件は検察院に取り戻された。9月21日に不法な人員は再び法廷を開き、今回に置かれた警察は前回よりも多く、また武装警察をも取り付けた。その上に南関法廷の周囲から大通りに至るまで、南の三道街から北の四道までに私服の特務がいたるところに配置されていた。南関門法廷四廷は国章のついた法廷の中で、その良心に背いて真善忍を信仰する道徳の高い李雪微さんを7年もの重い実刑判決に処した。李雪微さんは常に自分の無罪を主張し、上告を求めた。警察はその家族との面会を許さない情況の下で、李雪微さんは「法輪大法は素晴らしい!」と声だかに四度も叫んだ。法廷の副判事は恐れてパトカーに早く離れるように求めた。見れば邪悪の輩どももおずおず感じて暴かれるのを恐れているのが分かる。 妻の境遇への心配および悲しみを帯びて、娘への思いおよび心配を帯びて、李雪微さんの夫は痛ましい姿で日本に帰っていった。幸せな家庭はこのように離散され、一家三人は三つの所に住むことになった。 私たちは中国政府および善良な民衆たちに法輪功の真相を知ることを願い、支援の手を差し伸べ、共に行動し、良知および公正を世間に取り戻すように呼びかける。また正念のある日本政府および正義の人士がこの日本で数年も在住していた離散された家庭に支援の手を差し伸べ、6歳の幼い子供の願いを叶えるように呼びかける。そして世界中でより明白と善悪なる政府を区別することのできる人士たちが中国政府の過ちを認めることを助けるように求め、より多くの誠実さ、友好さ、そして寛容さを追求する善良な人々が冤罪に会わないように呼びかける。 |