日本明慧


心を落ち着かせる

 文/瀋陽の学習者 遠銘

 【明慧ネット2004年10月13日】先日“高蓉蓉氏が刑務所から脱出し、邪悪は混乱に陥った”というニュースから、気付いたことについて述べたいと思う。

 邪悪の迫害を受ける時、真っ先にまず緊張が走る、心も相手によって動かされてしまうなどといった話しを良く耳にする。このような迫害(多くの場合は、幻覚あるいは自分の心の変化により、現れるものが多いと思われるが…)に直面すると、相手の言動により、往々にして、激しく動揺してしまうことになり、その様な時に、師父がおっしゃった数々のお言葉や説かれた法が、一言も思い出せなくなるというのは、どういうことなのであろうか。

 弟子として肝心な時に、師父の教えを忘れてしまい、心は邪悪によって動かされるのはなぜであろうか?他でもなく、思想の中にある人間としての固有の観念が、難に遭遇すると真っ先に恐れを感じてしまい、次に自分自身を守ろうとする心が働くからではないであろうか。これらの根本的な執着は、長期に渡り真実を見抜く知恵と勇気さえ失わせるものであろうし、正法の時期における、大法修煉の厳粛性という問題にも関わることであろう。

 意識的であろうとなかろうと邪悪を重く感じ、常人としての手段で“安全な措置”を取ろうとしたならば、大法の弟子としての身の安全というものが、正念によるものであるということを、放念したことになるであろう。この迫害は、人為的なものではなく、常人が常人に対する迫害というものではない…従って、全ての現れは、心の動揺によって生じるものではないかと思う。

 “安全な手段”が安全であり続けるその基盤は、弟子の考えが、宇宙の特性に符合した後の常人社会での現れであると思う。では、なぜ同じ方法同じ言葉が、全く異なる結果を招いてしまうのであろうか?真相の説明における“法輪大法は素晴らしい”という一言は、人々に感動を与え、感涙を流すことさえ可能であるにもかかわらず、反感と疑問を持たれる場合もある。これは言葉の問題とは言えず、隠された執着による邪魔によるものなのであろうか…

 師父は、“修、煉”という二つの言葉を与えて下さった。人々がその“煉”だけを重んじ、“修”をおろそかにしてはならない。《転法輪》 “煉”は外在的で形式的なものであるのに対し、“修”は内在的なもので、内包を重んじるものではいかと思う。従って、本当の“煉”の中には、必然的に“修”をも内包しているはずではないかと思う。表面的な“煉”だけを重んじ、“修”を軽んじていたのであったならば、果たして良い結果を生み出すことができるのであろうか?

 《2002年米国フィラデルフィア法会上での説法》の中で、師父は最初に次のようにおっしゃった:“両岸猿声啼不住、軽舟已過万重山”(邪魔の迫害は止まないが、常人の執着を切り捨てた正法修煉の“軽い船”は、数々の難をすでに乗り越えたという意味である)。 実のところ、いかに数多くの邪悪があろうとも、またその勢いが、いかに強大なものであろうとも、前向きに修煉を行い、絶えず常人の心を捨てていき、はじめて修煉の道は、“軽い船”になれるのだと思う。

 いかなる邪悪の迫害にも心を動かされることなく、真っ直ぐに進んで行ってはじめて“万重山”を素早く乗り越えることができることであろう。邪悪の勢いに取り押さえられて、常人の心を動かしては、立ち止まり、振り向き、耳を貸してしまったりしたならば、修煉は遅れることとなり、また“迷い”の中に落ちてしまうことでもあろう。修煉の“船”は“暗礁”に乗り上げる恐れさえあり得るであろう。

 宇宙の法理は圓融であり、今日まで大法修煉の道を歩んで来た学習者であるならば、問題を判断する時に、過激または断片的になるべきではないと思う。いかなる場合でも、自分の心を見つめ、常人の思想根源を見つめ直すことで、表面的なものに心を奪われることなく、冷静に明白な思考をもち続けることができ、明慧を圓融することができるのではないかと思う。

 正法が続く限り、大法の弟子として、やるべき三つのことを着実に行い、妨害されやすい常人の心を取り除き、時間を大事にし、一刻も速く真相を説明し、世の人々を救い済度しなければならないと思う。正念の下での行いは、必ず正行であると思う。

 「正念強く、万里邪悪を突き破る。すべてを尽くし、悪神を取り除く。荒れ狂う風がどんなに強かろうとも、道中の山雨は旅行の砂埃を払うものだ」《征》。




(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/10/13/86496.html