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楊建坡さんは唐山開平労働教養所で迫害され、体重が50キロ急減した(写真)

 文/河北省大法弟子

【明慧ネット2004年10月17日】河北省廊坊市大法弟子の楊建坡さんは2004年2月20日に再び不法に唐山開平労働教養所に拉致されて迫害された。その妻の(?)春玲さんが正念を持って何度も公安局、労働教養所および陳情オフィスに真相を説明し、廊坊大法弟子たちが全体で力を合わせて地元の民衆に真相を伝え、更に真相を知った人々の共同救助の下で、楊建坡さんは6月8日に釈放された。

 楊建坡さんが唐山開平労働教養所に拉致されてから、常に絶食して江沢民政権およびその共犯たちの大法弟子への迫害に抗議し続けていた。体重も元の90キロから50キロ急減し、釈放されたときはたったの40キロしかなかった。

楊建坡さんが唐山開平労働教養所で迫害され、体重は50キロも急減した

 妻の聶春玲さんは娘を連れて5度目に労働教養所を訪れたとき、不法に働く警察はまた彼女を法輪功の“頑迷分子”であるとして会わそうとしなかった。聶春玲さんは厳しい態度で彼らに「私の夫はすでに危篤に陥っています。私は彼の妻です。法輪功を修練することは法に違反しません。法律から見ても、道義上から見ても、私の夫と面会するという要求は決して度を越していることにはなりません。何故私たちに会わせないのですか?あなたたちにはまだ少し人間性がありますか?はっきり言っておきます。今日はどうであれ、私は必ず夫に会わなければなりません!夫を見ない限り、私は決して家には帰りません!」と言った。警察はこの話を聞くと、すぐに「相談してくる」と答えた。最終的には労働教養所でやっと面会できた。彼女たちは労働教養所の庭に連れられてきて、皮と骨ばかりになって、すでに血の色を全く失い、大きなソファーに仰向けに座っている夫を見た。見るからに身体は極度に弱まっていた。

 大法弟子の韓振巨さんがこの労働教養所で迫害されて死亡した情報を聞いて、聶春玲さんは労働教養所に行き夫を釈放するように要求した。5月18日に彼女は娘を連れて再び労働教養所に来て、邪悪を暴き出し、善悪にはそれ相応の報いがあることを説明し、道理を持って要求した。今回聶春玲さんはすぐに唐山を離れることなく、毎日労働教養所に行き夫を釈放するように要求した。その後警察の隊長は手続きを終えてから釈放するから、彼女に先に家に帰って待つように求めた。

 6月8日の午後5時過ぎに、突然ドアを叩く音がした。ドアを開けると公安局、610オフィス、そして委員会の十数人が夫の体を支えて外で待っていた。このとき隣人もやってきて、聞こえのいいことを言いに来た。外にもたくさんの見物人が周りを囲んでいた。聶春玲さんはドアを開けるとすぐに「あなたたちは逮捕するにせよ、釈放するにせよ、全く法律によらず、それでも人民の政府ですか?私の夫は以前90キロもあったのに、あなたたちにこの様に虐待されて、どこかに好きな場所に送ればいいものの、私ももう要らないわ。隣人たちはみんな知っている通り、私の夫が大法を学ぶ前はどういう人だったかを。いつも喧嘩ばかりして、どうしょうもありませんでした。今は大法を学んで良い人になったのに、あなたたちが却って彼をこの様に迫害するとは!」と言った。その場にいた警察は誰一人話をすることなく、二人の警察が楊建坡さんを室内においてからすぐに去って行った。

 楊建坡さんは(?)春玲さんと以前からよく迫害されていた。2003年3月30日に唐山市の悪徳な警察の高威はその科長と一緒に、唐山市の豊潤区公安局東側三階一室で、楊建坡さんを鉄の椅子に鎖で縛り、ドアおよびカーテンを閉じてから、二人の悪徳な警察は手動式電話機(直流110ボルト)で順番に大法弟子の楊建坡さんを電撃して、数日にかけて彼を寝させなかった。その当時の楊建坡さんは心臓が爆発したかのように、全身の血液が煮え立つように感じた。今になってもまだ胸が押されているように感じ、気が短い、眩暈および痙攣などの後遺症が残っている。三日後に楊建坡さんは豊潤区看守所に送られ、悪徳な警察は彼の服をすべて脱がせ、地面に押したまま電気棒で殴っていた。その当時に、楊建坡さんの妻の(?)春玲さんも唐山市第一看守所に拉致されて、悪徳な警察は彼女を鉄の椅子に鎖で縛り、強制的に食事の注入を行い、鼻から胃までパイプを入れて、時にパイプは血で赤く染まっていた。胃からもたくさんの血が出ていた。市公安局の悪徳な警察は革靴の後ろの部分で聶春玲さんの親指を破裂するまで踏み、その親指の爪も落とされていた。




(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/10/17/86802p.html