日本明慧


師父と法をしっかりと信じてこそ、初めて人を抜け出せる

  文/山東省の大法弟子

 【明慧ネット2004年10月18日】私は1997年に法を得た弟子である。99年7.20以降ほどなく法を実証し、真相を伝え、衆生を救うための法を正す修煉を始めた。この5年間を思い出してみると、私の修煉は不十分で、ただ師父の慈悲の加護のもとでやっとするべき事をして、よろよろと何とか歩んできたのである。この過程の中でも大法と師父に対する正悟と正しく信じる心を鍛えてきた。次に少し悟ったことを話し、正しくないところがあれば慈悲のご叱正をお願いします。

 大法は一切を育成する根本で、法と師父をかたく信じることこそ、大法修煉の根本である。古い宇宙から新しい宇宙に入って、全身これ執着の古い自我を捨てて、大法修煉の中で新しい生命を成し遂げる。言うことは簡単で、やり始めるのも簡単である。先生はすでに私達に神になることのできる道の一切を与えてくださったから,私たちは正念を固めさえすればいいわけである。私達が師父と大法をかたく信じることができるかどうか、師父の要求に従って行うことができるかどうかを見るだけである。

 もちろん、修煉は厳粛なことである。正念を以って人心を克服しなければならない。師父はおっしゃったが、「修煉はきわめて苦しく、非常に厳粛なことです。ちょっとでも油断すれば、堕ちてしまい、長い間の努力が一瞬にして台なしになるかもしれないのです。ですから心を必ず正しく持たなければなりません。」(《転法輪》)。まして大法弟子のすべての事、一念さえも、旧勢力が皆詳しく手配をしたので、少し注意しないと、黒い手と卑しい鬼は隙間に乗じて迫害することができる。だから常にすべての事において自分の念を大法の中に溶けこまさなければならない。

 万古以来人間の中に形成された古い観念、古い思想は、決して話すだけで取り除かれるものではなく、絶えず修煉と実践の中で少しずつ取り除かれていかなければならない。ここで私は真相を伝える中で出会った二つの事を話します。ある日ある村へ真相資料を配りに行き最後の一部を配り終わった時、歓喜心が生じた。心の中で:やっと配り終わった、もう悪人に見られることを怖がらなくてもいいと考えていた。ちょうど考え終わった途端、ある人が出てきた。私の恐れる心が急に持ち上がってきて、車に乗って逃げて行った。あの人は後で叫んだ:「法輪功の仲間だ、捕まえろ!」幸い先生の慈悲の加護があって、あの人はただしばらく叫んでいたが、だれも出てこなかった。あとになって内に向って探してみて、私は自分の執着を探し当てた:私は資料を配ることを仕事のように思っていて衆生を救うためとは考えていなかった。その時チャンスをつかんでもしあの人に真相を伝えていたなら、彼は救われたかも知れない。善し悪しは一念によるものである。さらに恐れる心、歓喜心などがあり、すべては人心の自然な現れである。正念が足りず、常にすべての事が法に基づくことができなかった。今度の試練を経て、次はずいぶん良くなった。数日後その他の村へ資料を配りに行った。手で資料を持って、正念を発して環境をきちんと整理しながら、縁のある人に配った。横丁を歩いていて、突然ある老人がドアを開けた。その時私は恐れないで、ほほえんで彼にむかって歩いて行った。思いがけずその人が自分から出てきて:「一部私にください。あなたは法輪功をやっているのでしょう?」と言った。私のあのときの微笑みは自然なものであった。恐れる心を取り除いた後の自然な現れであり、心性の必然的な昇華であった。この二つの事を経験した後、法を正す修煉に対して私は新しい悟りを得た。

 正念の前提は正しく信じることである。大法に対して先生に対してかたく信じることこそ大法修煉の根本である。もし先生の説いた法に対して気がかりを持つならば、それなら先生のおっしゃった通りに行うことができなくなり、ふだんどのように言っていても、肝心な時に往々にして正念がなくなる。ここでまた修煉の中で出会った事で説明すると、今はとっくによくなっているが、私は大法を修煉する前に、腰の痛い病気があった。しかし2004年の春に、突然また痛くなり、その上とてもひどくて、ベッドの上で横たわって、動くこともできなかった。便所へ行くのさえも人に支えてもらわなければならなかった。その時旧勢力の黒い手が私を迫害していることを意識した。しかし心の底の深い所でいつも「持病がまた再発した」との思いがあった。だから正念を発しても、旧勢力の迫害を否定する勢いが足りず、正念は強くなかった。先生の法理に対して疑問を持って、それで何日もベッドに横たわって下りられなくなっていた。ある日、同修が私に資料を取ってきてくださいと言った。心の中で私は直ちに意識した:絶対にこれ以上旧勢力に迫害させてはいけない。私は真相資料を配りに行き、真相を伝えに行かなければならない、旧勢力に邪魔されてはいけないと思った。この一念が出ると、ベッドの上から跳ねて起きた。その時側で坐っていた娘が驚いて:「よく起きられたね」と言ってくれた。私は出て行かなければならないと言った。彼女は心の中で修煉する人には不思議なことが多いと分かっているため、私を阻止しなかった。私は自転車を出して乗って行った。全く腰が痛い事はなくなっていた。一時間余り資料を配り終えて帰ってきたとき、腰はもう痛くなくなった。この事は私の家族に対して、とてもよく真相を伝えることになった。彼らが大法の偉大な威力を目にしたからである。

 師父を信じ、法を信じて、大法を実証し、衆生を救う肝心な時に、100パーセントかたく信じてこそ、初めて強大な正念がありえる、初めて法を正す修煉の道をよく歩くことができる。これは私の真実な感銘である。


(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/10/18/86872.html