純粋で清らかな心を保つ
文/大陸の学習者
【明慧ネット2004年10月21日】私は1996年6月に法を得た。法輪功への迫害が開始された後も、度々真相を伝えていたため、その都度不法に監禁された。そして、労働教養所に入れられ、3年の刑に処された。そこで、残酷な拷問や非人道的な迫害を受け、倒れては起きあがるといった経験を経た後、最後には、労働教養所から出ることができた。出所してから既に二年になる。
この間、一緒に収容されていた数名の学習者のことをしばしば思い出す。学歴は余り無かったが、非常に善良な老女たちで、家で農作業に従事している人もいた。本当に素朴な人たちであった。彼女たちと共に過ごした日々を思い出す度に、いつもある種の温かさを感じる。多くの学習者を知っているにもかかわらず、なぜその純朴な笑顔だけが脳裏に浮かんでくるのかをずっと不思議に思っていた。
その後になって、やっと理解できてきた。彼女らはまるで一枚の鏡のように、隠されている私の執着心を映し出したのであった。確かに彼女たちよりも、教養もあり、文芸についても分かり、会話することにも長けていたことと思う。幼少の頃から成人になるまで、「美しい、気品がある、聡明で先見の明がある…」などと言った、他人の自分への褒め言葉ばかり、耳に入って来ていたのである。
労働教養所に来ても、このような話をよく聞いていた。警官の口から出てくる言葉もあれば、学習者の口から出てくる言葉もあった。このような話を聞くとき、いつも恥ずかしくなり、その賞賛の言葉を否定しようとして、自分はたいしたことはないと言っていた。その恥ずかしいという気持ちは、その場の繕いではなく、謙虚な態度であったと思う。しかし、その純朴な学習者たちのことを思い出す度に、自分が他人からの賞賛の言葉に対して、外見は謙虚な態度でいたが、心の中では知らず内に、認めるようになっていたのではないかと思った。
自分が思わずとも、他人に褒められるといった特性があるのかもしれない…しかし、この特性自体に問題はなく、問題はこの特性により、自分の一つの心を助長させていたということである。それは自分がこのような特性の無い人に対し“優越感”を感じ、“自分が上”と感じていたのである。この心は容易に気付くことが出来ず、外見の謙虚さに隠されていたのである。この心は修煉する以前からつきまとい、修煉をはじめてからも、自分は一部の学習者より“秀でている”と感じていたのである。この心はなんと劣悪で、不潔なものであろうか。
もし、神の目線から見たならば、ある人が学習者の中でこのような心を抱き、自分が他人よりも“良い”と感じたならば、既に他人より悪くなっていると神は見ていることであろう。なぜならば、善悪を測る基準は“真・善・忍”であり、聡明だの、綺麗だの、文才などのようなものではないはずである。この心は棘のように、他人を刺し、自分をも刺し、良くない場を作り、他人に心地良くないと感じさせるものであろう。
ある学習者が、心地良くないと感じたことを告げて来た時に、この心は他人が自分に嫉妬していると思わせ、逆に「あなたには嫉妬心があるのではありませんか?」と聞いてしまった。また、自分は他人の責任をとっているのだと思い込み、内に向かって探してみようとはしなかった。他人が自分を見るとき“好ましく感じない”のはなぜであろうか?内心では自分を“偉い”と思っているのはなぜであろうか?結局は外見から見ても、自信満々であったのだ。
しかし、この種の自信は、聞こえの良い賞賛の言葉に根ざしているため、聞こえの良くない言葉を嫌う。一旦聞こえの良くない言葉を聴くと、自信の“基盤”を揺り動かしたかのように、すぐに揺れはじめ、直ぐにこの“基盤”が傷を負わないよう保護しょうとする。そんなことでは、疲れることであろう。従って、この心は他人をも自分をも刺してくるのである。彼女らは、いわゆる教養、文芸や会話する能力といった“特性”は、持ち合わせてはいないかも知れない。しかし、善良、忍耐強さ、他人への気配り、落ち着きといった美徳を持ち合わせているのである。
彼女たちの善良な笑顔や気配りを思い出す度に、暖かさや心地の良さと言ったものを感じる。これで、やっと悟ることが出来た。全ては師父による暗示であったのではないかと。師父は苦心をされ、悟らせてくださった。ああ、なんと慈悲なことではなかろうか。彼女たちを思い出させることで、悟らせるよう案配してくださった。これほどまでに、良くない心を持っていたのである。私の“特性”が他人より良いという訳ではなく、他人にはそのような心が無いために、“良い”と思いこんでいるというだけである。その後、思わず涙が溢れてきた。
師父が『2003年旧正月十五日米国西部法会での法の解説』の中で、「また、自分の身分を気取ることも、自分が他の人と違うと思うことしてはならず、皆さんは皆一つの粒子です。私から見れば、他の人より優れている人は一人もいません。なぜならば、皆さんは私が同時に掬い上げたからです(拍手)。この方面において能力のある人がおり、あの方面において能力のある人がいますが、これでうぬぼれてはいけません。私にこれほどの腕があるなど云々しますが、それは法があなたに与えた能力です!あなたはそれほどの能力に到達しなければいけないものです。法を正すことはあなたの知恵がそこまで達することを必要としているため、自分がいかに有能かと思わないでください。私に自分の腕を披露したい学習者がいますが、実は私が思うには、これは皆私があなたに与えたもので、見る必要などはありません(皆笑って拍手)」とおっしゃっていた。
今再びこの段落の法を見ると、自分のことを言っているのに気がつき、とても恥ずかしく感じた。この目覚めに連れ、その良くない心も徐々に崩壊していき、身体にも大きな変化が見られた。良くない物質がどんどん取り除かれていくのを感じた。身体各部や臍下丹田から、どんどん冷たい気が出てくるのを感じた。そして、自分の心がより善良で落ち着いたものになっていくのを感じた。他人から辛辣とも言えるような言葉を受けても、聞き入れることができ、内に向かって探し、執着を取り除き、心性を高めることができのではないかと思う。後には、自分に対して、何か発言してくれる人のことを愛しいとさえ感じ、本当に心性を向上させることを助けてくれていると思うようになった。内心からも感謝と言う気持ちがにじみ出て来るようになっていった。
正法の最後の時となるまで、自分の心を修めていかなければならないと思う。純粋な心で真相を伝え、正念を発することで、はじめて最も神聖なことを行っている、ということになると思う。師父は、『精進要旨』の「再認識」で、「真にこのように向上することができるなら、皆さんが純粋で清らかな心の状態の下でおこなったことこそ、最も良いことであり、最も神聖なことなのである」とおっしゃった。
(第一回書面による中国大陸の法輪大法修煉体験交流会の原稿より)
(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/10/21/87116.html)
|