江XXを告訴する為に獄中99人の大法弟子を組織する
— 唐山法輪功弟子劉菊華の廉直さ
【明慧ネット2004年10月4日】唐山大法弟子劉菊華は、逮捕される前は唐山市のある工場の労働組合長であった。彼女は50才で、私達は彼女を劉姉さんと呼ぶ。
1999年7月20日、劉菊華は五番目の妹と二番目の姉の娘と共に、北京へ行った。送還された後、唐山市で夜間戒厳令が出されたにもかかわらず、彼女は再び北京へ行った。唐山市から北京まで歩いた。朝5時から夜まで歩いて、彼女の靴は摺りきれた。ついに北京の郊外に到着し、タクシーに乗って市内に入った。数日後公安に捕まり、唐山市へ送還され、留置所に入れられた。
そこには既に数十人の弟子が留置されていた。何日か経って、劉菊華と姪はそこに居るべきでないと悟り、他の同修達と相談すると皆同意した。ある日劉菊華と二人の同修は他の部屋に移された。その部屋の裏側の窓にはガラスが無かった。三人は相談し、夜中にその看守厳しい留置所を窓から逃げ出した。
逃げた後北京へ行き、再び逮捕され、唐山市へ送還された。今回は警察は機嫌が悪かった、「おまえは留置所から逃げた劉菊華なのか? 自分がどんなに大きな罪を犯したか分かっているのか? おまえが逃走した為に、留置所の幹部が何人か罰せられたのだ。今回は逃がさないぞ!」 彼女は看守所に留置された。しかしほんの不注意の為に、劉菊華を捕えた警察は、彼女を留置所の向かい側の拘留所へ送った。そこに居る間彼女は、以前共に逃走しようとしてしなかった同修と話し合った。成功は成し遂げようとする決意に掛っているのだと、同修達を励ました。その意志があれば、成功するだろう。彼女がそこに一時間ばかり居た後、公安が間違いに気付き、彼女を看守所へ連れ戻した。その結果、50人居た同修中28人を鼓舞し、正念をもって脱走させることになったのである。
1999年11月、劉菊華と妹と姪は、河北省の労教所に不法留置された最初のグループに属することとなった。彼女等は、唐山市開平女子労教所へ送られた。それと同時に、彼女の29才の大卒の甥も又労教所へ送られた。その甥の母親である彼女の姉は、北京へ請願に行った後失踪した。
開平労教所では苦難が多かった。重労働以外に大法弟子達は煉功する度に、残忍に殴られた。劉達3人は、先立って警察に洪法し、理を説いた。彼女等は、全員が一緒に煉功するよう組織し、その為に石家庄労教所へ移された。石家庄労教所で扱い困難な数人の弟子達は、唐山労教所へ移された。
その頃、石家庄女子労教所の大法弟子達は皆、監守に服従し、命令に従っていた。毎日10時間働き、時には靴に釘を打って居るときに眠ってしまい、金づちで手を怪我することとなった。劉菊華は、国家の法にはそのような規定は無く、これは不正であり、正されなければならないと言って、皆を奮い起たせた。
このように皆は、正規の8時間労働を要求した。予想通り監守は認めなかった。皆は要求が通るまで労働を拒否することに決めた。これを知って、警察は殴り始めた。一部の者は殴打に耐えられず仕事に戻ったが、大部分はボイコットし続けた。その中には60代の年寄りや、20才にしかならない若い女性も居た。彼女等は、残酷な警察の侮辱や容赦無しの虐待に、耐えた。"按配" に服従するのを拒否した。警察は実際このグループを服従させる事は出来なかった。最後には朝6時から夜10時まで壁に向かって外に立たされた。食事したり手洗いを使ったりする以外は、微動もせずに立っていなければならなかった。体を曲げたり屈んだりすることは許されなかた。それは45日間続いた。風雨の中で顔の皮膚が鉄板のようになるまで、頑張り続けた。殆んどの者はもう足を曲げることが出来なかった。労働を続ける以上に苦しんだ。普通の人達なら、そのような恰好でそのように長時間立たされれば、失神してしまっただろう。最後には、労教所は弟子達の要求を受け入れざるを得ず、過剰な労働を強いられることは無くなった。労教所の普通の囚人達も、一日8時間労働が要求されるだけとなり、彼らは大法弟子に心から感謝した。
当然大法弟子は、一日8時間労働をも、所謂軍事訓練と共に拒否するべきであった。何故なら彼らは完全に無罪であったのだから。大法弟子はいかなる留置や奴役や侮辱をも、受け入れるべきではなかった。しかし厳酷な環境下にあって、これら弟子達の勇気は確実に人々の敬意を得た。
しかしながら、煉功と法の勉強をすることは、弟子達にとって未だに困難であった。朝の体操の間に、もしも一人が煉功の動作をすれば、他の大勢がそれに従った。警察は殴っても彼らを止めることは出来なかった。本が無かったので、皆は覚えている部分を暗唱し、他の弟子は書き留め、それを皆が読めるように配った。警察は泥棒や売春婦や麻薬中毒者に、弟子達が手洗いを使う時でさえ監視させた。もしも弟子達の一人でも経文を読んだり、煉功するのが見つかれば、皆が直ちに容赦無く殴られた。これが広く行き渡ったお決まりの情況であった。"扇動者" と見られる者は皆、手錠と足枷を掛けられ、吊され(ドアの枠から一週間吊された者が居た)、棍棒で打たれたり電気棒で衝撃を与えられたりした。殴打され、劉菊華は頭の側面に深刻な傷を受け、二年に渡って度々発作を起こした。その疼痛は彼女の顔を臘のように青白くした。
劉菊華は石家庄市女子労教所第四大隊に居た。そこでは全ての大法弟子達が束縛されていた。彼女達は入手可能な如何なるペンや紙をも利用して、毛布の下に隠れて請願書を書いた。労教所の従業員の一部に託して、手紙をこっそり持ち出して、権力者に郵送した。劉菊華は数えきれない程の手紙を書いた。彼女は江沢民に対し訴訟を起こさなければならないと決定し、皆賛成した。彼女は訴訟状を書いた。范立新と和朱紅は手紙のコピーを何枚か作り、訴訟に参与したい弟子達がサインを添付出来るようにした。彼女らは手洗いに行く時でさえ、監視されていたが、手洗を使う時、顔を洗う時、食器を洗う時は、それほど監視が厳しくなかった。目で合図するか、短い会話だけで、弟子達は互いを理解し、皆は用意された紙にサインした。サインされた紙を集めて、劉菊華はサインの入った紙を集め、訴訟状に糊でくっつけた。合計99人のサインがあった。手紙を書き終えると、劉の家族の者が郵送し、それをインターネットに掲載した。手紙は隊長から中隊長、そして最後に大隊長へと廻された。弟子達は手紙が最高人民法院へ送られるよう要求した。あまりにも多くの手順を踏まなければならず、問題なく届いたことに、人々は驚嘆した。訴訟状が送られてまもなく、公安部が劉菊華と和朱紅の不法逮捕を調査した。
今日は同修達が更に勇猛精進するよう励ます為に、この劉姉さんの話を記述した。
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/10/4/85782.html)
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