正念が強ければ、法の威力が無限に現れてくる
文/中国・河北省趙県の大法弟子
【明慧ネット2004年10月17日】私は小学校しか出てないから、文章を書くのが苦手で、しかも、自分の修煉が良くできてないと思って、修煉体験を書く自信がなかった。法を勉強している過程で、この考え方が邪悪な旧勢力の干渉によって生じた良くない心だと認識し、体験談を書くこと自身が邪悪を取り除き、法を実証する過程であると思うようになった。
1、邪悪を直視する
私は2002年3月に警察に拘束されたことがある。彼らは私が重要人物だと思って、私を利用して良い成績を作れば、奨励金をもらえるかもしれないと考えていたようで、そのために、各種の残虐な体刑を使って私を拷問したが、結局何も得られなかった。ある日のこと、ある警察の副課長は私に彼の目を真っ直ぐ見るようにと言った。私は2分間ぐらい彼とお互いの目をじっと見つめ合った。その時、私はこう思った:私は法を正す時期の大法弟子であり、何も間違ったことをやっていないから、君たちのような邪悪な者を恐れることはない。私は心が動揺せず、固い信念を持って相手と互いに見つめ合った。暫くしたら、この副課長は私に非常に簡単な質問をしただけで去っていった。同じ課の課長は傍でこの一幕を見てから態度が一変して笑いながら優しい顔をして私に話し始めた。私はこのチャンスを利用して彼らに真相を説明した。彼らはいろいろ言い回しながら、私の意識を混乱させて必要な情報を聞き出そうとしていたが、私は初めからその邪悪な本質を見抜き大法に賦与された知恵で彼らの罠を破った。私の口から何も聞き出すことが出来なかったこの課長は“回れば回るほど、私自身は段々訳が分からなくなった。本当のことを理解するには法輪功を学ぶしかないだろう”と語った。
2、正念が強ければ、法の威力が無限に現れてくる
初めて拘束された時、私は正念が足りず、邪悪の虐待に耐えて大法弟子の意地を見せたいという一念があった。邪悪の警察はこの隙に乗じて私を3時間以上拷問し続けた。その後、私はこの一念が法理から離れたものであり、むしろ自分自身を顕示したい心があると悟って、その虐待を邪悪者自身に受けさせるべきだと思った。この一念を発したら、かれらは私に対する拷問をすぐ止めた。この時、私は初めて正念の力を感じて、正念さえ強ければ、師父が必ず我々を助けることができると分かってきた。
ある日、警察は私を尋問する時、私を恫喝したり、脅迫したりして何かを聞きだそうとしていたが、私は“数十年来、私は人を害することを一度もやったことがなかった。まして今修煉者として、常に「真善忍」に従って自分を律している私は決して大法と師父に泥を塗ることをしてならない”と話した。正念の力によって、邪悪な者は何も得られずに尋問を止めた。
数年間の修煉を通して、私は法を勉強することの重要性をますます強く感じてきた。頭の中に法をたくさん入れれば入れるほど、肝心な時に正念を保ち続けることが出来る。私は日常生活のなかで困難に直面する時、或は邪悪の迫害を受けている時に、常に自分が大法弟子であり、修煉者であることを意識して、自分の周りに発生する出来事がすべて偶然なことではなく、自分がうまく対応できない場合、必ず自分の執着に障害されているに違いないと思っている。固く師父と大法を信じることで、はじめて正念を持って大法を実証することができる。
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/10/17/86640.html)
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