私達の得たいものを得る
ある明慧編集者
【明慧ネット2004年10月30日】私は中国大陸のことに関心を持つ海外の法輪功学習者と共に明慧編集者として、この何年間か、たくさんの大陸資料点の仕事や問題に関する文章と情報を読んだ。思考も多くある。個人の理解では、資料点の仕事は、即ちすべての資料点で働く学習者の法を正す時期に自分の歩む道であり、自分の道を歩みだしている。
資料点と資料点と関係のあるすべて(同じ資料点で仕事をする二、三名の同修とその場所だけではない)は自分の修煉の環境である。この環境の中に至る所にすべて自分の容量を拡大し、再び自分を認識し、自己を放下し、常人の観念などを放下するなど心性を高める要素がある。資料点は大陸で真相を伝え、修煉し、衆生を救い世人を済度する、邪悪を一掃する中で果した作用は、この空間で見えるのには限られているが、実際にはとても巨大である。その上現有の資料点の数量と資料の仕事に参与する学習者はまだ遥かに足りない。これもどうして明慧ネットが、ずっと師父のおっしゃった資料点は「至る所にある」とのことを強調する要因である。このようにする効果は言うまでもないので、時が経ち、迫害が終わることにつれて、みなさんいずれもであるが、中でも極めて利益を受けたのは、立ち上がって個人の資料点を創立した学習者と世間の人である。
資料点の仕事に対して、必ず長期に「法を学ぶことを怠けない」、必ずしっかりと正念を発することを堅持し、自発的に真相(受動的に資料を処理するのではない)を伝えなければならない。この過程の中で絶えず内に向って探し、心性を高め、このように初めて冷静な頭を保つことができ、法を正す大局から存分に問題を認識し、考慮することができる。さもなくば表面の黙々とした仕事の中で、人心と仮相に邪魔されて、修煉の中で精進することがでず、仕事も根気よく続けることができない。甚だしきに至っては竜頭蛇尾、未解決のまま棚上げにする。同時にもう一面から、常人の意義から言うと、資料点の仕事は技術を必要とし、一定の文字の素質を必要とするが、資料点の仕事は個人の栄誉、或いは個人の価値を実現する工具ではない。この両方をうまく置くことができなければ、いずれも修煉の中の問題になり、自ら真相を伝える仕事の大局を邪魔することになり、自分の修煉に損失をももたらす。
実は明慧ネットの仕事はこのようなことではないか?
この数年間、一部分の明慧ネットのために働く学習者は各種の原因で、1種の観念を形成した。明慧は「裏方」の仕事で、他の「もっと重要な」大法の項目のために服務する、「裏の仕事」だと思われる。もし「服務」と言う単語を借りて使うと、明慧の服務性質は確かに強い。——1999年6月、大陸の広大な同修の修煉環境はいよいよ全面的に破壊されるのを見て、私達自信の環境を補い、守るために、明慧ネットを作ったのである。その次に、中国共産党は迫害を行う時、これまでいつも情報を封鎖し、弾圧の世論を引き起こすことを先にして、それを重要な実施手段としてきた。修煉者の情況、迫害真相、私達の正義の音をどのように皆さんに伝え、この世界に伝えることができるのか?集中的に真実なニュースを伝える所を必要とする。それではこの所に気をつかわなければならない人が要り、服務する人が要る。一方、最も重要なのは、私達大法弟子、自分が明らかな受益を感じたかどうかに関わらず、自分の師父が迫害されていて、自分の入っている法輪大法と言う修煉法門は、不法に弾圧され、悪辣に誣告され罪に陥れられる時、私達が立ち上がって、発言することはあたりまえのことであり、道義上断れないことである。その上その時の情況下で、私達自身が発言する以外、世間の人に真相を分かるように働きかけ、多くの同門の弟子にこのような話をする環境を提供するようにしなければならなかった。皆さんは師の相弟子であるため、皆このような希望があった。国家陳情事務室などの関連部門へ行く以外、私達も自分のメディアを必要とし、内外に向けての窓口を必要とする。これらの意義上から言うと、明慧ネットはこのような特殊なメディアであり、このような服務性のとても強い窓口である。
私達の仕事に対して、他の人(現段階では主に世間の人と海外学習者の中に一部分の調停者、活躍者)は、その人自身の原因で、しばらくの間理解せず、重視しないが、私達長期にわたって明慧ネットで働く学習者は、自分が何をしているかをよく知っているべきである。その上、師父は私達の行ったすべてを知り、宇宙の中の神は皆このすべてを見ていることを私達がかたく信じるべきである。私達は世の中で他人の承認、理解、ほめたたえを得るために行ったのではない。師父が私達を救い済度するのは無条件的で、私達は師父の法を正す過程の中で、世の中で師父を守り、大法を実証し、邪悪を暴露し、世間の人を救い、迫害の中で私達の環境を守り、これらも条件を言わず、報いを求めるべきではない。このように根本的に信念を固めなければ、世の中の「見えたものだけは真実だ」という外在の誘惑のもとで、まだ残存している名利心、事業心に駆り立てられ、一定の程度まで問題が蓄積され、その関所を乗り越えられなくなる。、このような状況では明慧ネットの仕事を最後まで堅持することは難しい。
実は、明慧ネットは真相を伝え、邪悪を解体する中での作用は直接的でそれに越したことはない。たくさんの迫害の参与者にとって、その凶悪な首領江××を含んで、送る必要はなく、彼らは自ら読んでくれる。恐れたり恨んだりするが、まだ離れられない。中身まで読み入った後の効果は言うまでもない。江××が「法輪大法がよい」ことを耳にして、目の中から大法弟子の真相横物を目にしたように、その背後の邪悪は解体されている。
大陸のすべての資料点のために、すべての大陸大法弟子のため、海外で真相を伝える仕事を行う弟子のために服務する以外、私達はずっとすでに明慧ネットの作用を認識した各国の政府、議員、研究機構、情報機関など、すべての異なる角度から私達に関心を持つ世間の人に服務している(真相を伝える)。
私達が更に直接邪悪を暴露し、邪悪を震え上がらせ、大陸大法弟子の圧力を軽減している。明慧ネットの文章はいずれも迫害に参与する邪悪な輩を収斂させることができる。資料の収集、事実の確認、文章書き、タイプライター、伝送、編集、審査認可、校正等等、どれだけの大法弟子の心血と努力を経るだろう。最初から最後までずっと旧勢力及び黒い手と卑しい鬼を一掃している。だから文章は載せられると、あちらの邪悪は収斂することになる。ある学習者がかつてこのようなストーリを話したことを覚えている。明慧ネットに点呼されたある凶悪な警官は自分の悪行が明慧に暴露されたことを耳にして、表面上は足を跳んで、あなた達は私をどのようにすることができるのかとわめきたてていたが、実は怖くてたまらなかった。悪の報いがいつでも自分の身に落ちることをひどく恐れて、こっそりと自分の退却路を探した。これはただ大海の中の一粒で、小さい1つの例であるにすぎない。
私達の仕事が果した作用は、直接かそれとも間接なのかに関わらず、皆私達が大陸の資料点の同修(実は資料点の同修に限られているだけではない)と一緒に大法を実証し、師父に協力し、私達自身を救い済度する過程であり、大昔の師父に対して、衆生に対して自分の承諾を得る過程である。同様で、電話グループ、ネットワークグループ、政府活動グループ、その他の大法弟子の創立したメディアの仕事、等等は、すべて全体の一つである。明慧ネットの真相資料の影響を拡大して、明慧資料を使うことを通して、彼らの大昔の師父に対して、衆生に対しての承諾を履行している。明慧資料は資料点に属さない、明慧ネットのために働く学習者に属さない、どの文章の作者に属さないで、私達すべての大法弟子に属する。私達の行った仕事と、その他の大法弟子が行った仕事との関係は、どれがどれに取って代わったり、圧倒したりするわけではなくて、かえって各部を合わせて、全体にさせる関係である。──すべての行うべき項目を合わせると、私達大法弟子はすべての直面すべき世間の人に直面して、いかなる地方の救うべく衆生を落とさない。
他の人は具体的に私達の仕事に参与していないため、あるいはあまりにも自分の手の中の仕事を重視しすぎて、そのため私達の名前を知らず、私達の払った代価を知らず、甚だしきに至っては、その他の項目の仕事に参与しない、支持しないと誤解している。しかし本当に誤解されたら、善意を以って適切に説明する。具合が悪かったり、また何か気にかけることがあるのか?修煉の過程の中にいつも矛盾があって、皆さんはその中から高まらなければならない。自分の行うことはよい事、重要な事であるから、何もかも順風に帆をあげるべきで、他の人が至る所で私達を理解し、私達の面倒をみて、認め、ほめたたえたりすることはあり得ない。修煉者はこれらを求めるべきではない。
一部分の学習者は明慧ネットの仕事を長期にやってきて、長期に毎日巨大な作業量の中でもがいて、法の勉強、発正念を堅持していないため、いくつかの心性の問題は長期にわたって解決できていない。あるものは求めることがあり、長期にわたって気づかないで、誘惑の前で自分が明慧ネットの仕事をする過程のなかで、得たいものを得ていないと感じて、離れたしまった。他人は自分の作業量を引き続き担当できるかどうかを考えず、更に自分が気の向くままに離れて、明慧の仕事にどれだけの衝撃をもたらすかをも考えない。
実はその他の仕事の中でよくこのような現象が見られる。一部分の海外の学習者はいつも新しい仕事をやり、旧い仕事を置いておく。聞こえのよい名称で「その仕事が更に重要であれば、私がそれをしにいく」。一部の海外学習者はたいへん「最も重要な事」を気にかけて、自分が落とされないようにする。同修よ、仕事が確かに段階性の軽重と緩急の分別という要素がある以外、必ずよく自分を見ないといけない。私心と求める心を放任しているかどうか。師父の法を正す最後の段階まできて、私達はまだ「無私無我、他人は先自分は後」で自分を厳しく要求しないのか?新たに作る項目は、いつも計画し建設して、歩きだす過程があって、この過程の中でその重要性と作用を強調しないのが正常である。しかしこれは決してその他の存在している仕事より重要だと説明しているわけではない!特に明慧ネットのようにすでに熟成段階に入ったメディアは、いつも他人が繰り返して自分の仕事がどのように重要だと言うことを耳にすることを望んではいけない。さもなくばどのように私達自身が修煉の中で熟成してきたと言えるのか?私達は皆法を学んでいるのではないか?大局から出発して問題を見、法の必要から問題を見るべきである。多くの事について、世間の人はあなたがよいと言っても、どれだけの問題を説明することができるのか?米国のたくさんの大きなメディアに対して、皆すごく、重要だと感じているが、今この重要な歴史の瀬戸際にどんな作用を発揮しているのか?それらの未来はどのようになるのか?大法弟子が外部のフィード・バックを参考にして、自分で法に基づいて考えて、判断すれば更に信頼できる。
また割合の大きい明慧ネットのために働く学習者は、長期にわたって巨大な作業量を引き受けるため、長期にわたって受動的に物事を行い、他人の渡した作業量を完成して、全体に対して責任感、栄誉感と使命感がない。あるものは今に至って、自分の担当する具体的な仕事の中で、毎日必ず完成しなければならない作業量以外、大局の需要から出発して、早急に解決を要した問題や、改善、向上すべき所はどこにあるかが分からない。あるいは仕事の安全を保証する面の需要は、自分が消極的に環境に対応し、怠けて、自分を変えたくなく、自分の個性の中のマイナス面の要素を変えたくないことを口実とする。 その他のいくつかの修煉状態がもたらした共通の問題がまだある。たとえば自分が皆さんのために代価を払っていると感じて、それゆえに、他人が自分を理解すべきで、自分を承認し、いつでも無条件に自分を支持するべきだと思う。得られなけば嫌な感じがする。
昔から修煉の形式はとても多くて、清修はとても主要な1種である。皆今日の大法弟子修煉のために舗装したのものだ。私達は清修を重んじないが、資料点と明慧ネットの仕事は比較的に控えめで、甚だしきに至っては社会で「世に知られない」道は、更に多くの清修の要素を含んでいるではないか?ただ古人の清修の時に物質の条件がとても苦しくて、環境がとても寂しかった。比べて見て、私達の環境は心地よくてずっと優越している。その上私達は家にいて修煉するため、家庭、社会と接触し、同修と交流する義務と条件がある。実は特殊な時期、特殊な情況の下で、たとえばしばらくの間、作業量は続けて極めて大きくても、私達も世と断絶していない。ある編集者は良く話した:私が始めたばかりの時作業量の中で埋もれて、とても受動的で、気持ちがよくなかった。それから法を学ぶことを通して、気持ちが落ち着いて、突然自分が1篇の原稿を読むことも皆大陸の同修と交流していることに気づいて、相弟子は心を1つにして力を合わせている……,仕事の中で修煉の面ではとても大きくて受益したし、逆に仕事をすればするほどよくなる。
言いたいことはたくさんあって、本文に書き出したのは皆足りないところである。もし現段階では修煉によって引き続き高まらなければ、私達の今の容量と思想の枠では、この時期の最後の段階に、法が私達に対する要求と、全体の情勢の要求を達成することができないだろう。実は心を静めて法をすこし学び、1つの更に安定している集団学法、集団交流の正しい環境を形成して、人心を抑え、取り除いて、正念が強くなると、何でも一目で分かり、向上・改善させる願望があるはずだ。みなさんが共に仕事をしっかりと行って、共に高めるという願望があれば、師があり法があって、何ができないことはあるのか?
いくら話しても、何が私達の得ようとするものなのか?世の中の快適、地位なのか?他人の認めと表彰なのか?同修の中の名利なのか?特殊な事業と業績なのか?そうではない。私達がやりたいのは師父のために分担することで、私達の力は極めてわずかだけれども。私達が願っているのは師父になるべく気をつかわせないことであり、私達の心性の各方面にまだ標準に足りないけれども、私達がやりたいのは、事実を以って世人に心のそこから私達の師父を感心させ、大法の威厳と道徳を賛嘆させることである。明慧ネットはこのような大法弟子(どの部分の仕事をするのに関わらず)が自分の誓約を実践する過程の中で歩みだした今後も続けて歩んでいく道である。ずっと次の修煉者がこの任務を引き続き担当するまで。
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/10/30/87937.html)
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