日本明慧


無意識の内に“自分を実証する”心を取り除く

文/安徽合肥大法弟子

 【明慧ネット2004年11月12日】ある日の夜、私は妻と一緒に真相資料を配りに行き、予想以上に順調であった。その地区にはいろいろな人が往来していたが、私達が念を発するだけで、私達の通過する場所の通行人は私達から遠く離れるようになるか、あるいは早足で私達から離れるか、私達の前を通過して行った。私達は素早く資料を全部配り終えることができた。

 私が今日の順調さを感嘆しているころ、妻は自分が今日正念を発するときに無意識のうちに「私たちが真相資料を配ることを妨害するすべての邪悪な要素を解体する」の一念を「正法を妨害する邪悪要素はすべて解体するように」に変えたと言い出した。私がそれを聞くと全身が震え、すぐにこれは師父が私達に事を成すときの基点について暗示しているのだと気づいた。以前ならいつも「私は真相を伝える、私は法を実証する、私は精進する、邪悪は私を迫害してはならない」などなどと強調していた。確かに三つのことはちゃんとやっていて、それに向上するスピードも速かったのだが、どうしても法の中に溶けこむことができないと感じる。重要なのは正念が不足のため、法の威力が体現されないことだ。なるほど“私”という字が取り除かれずに、何かをするときは一粒の大法の粒子が成し遂げていると考えていなかったわけだ。表面上では法を実証しているものの、実際のところでは自分を実証しているのであった。常に自分に自我を放下するように、心を清めるようにと注意を与えつつも、しかし本当の大法の粒子とは無我、無私でなければならないのに、どうして「私心を取り除き、自我を放下する」という一念はあるのだろうか。これこそ人と神との本質的な区別であると私は思った。

 「 皆さんはあることに気をつけるべきです。つまり、皆さんは法を証明しているのであって、自分自身を証明しているのではないということです。大法弟子の責任は法を証明することです。法を証明することも修煉です。修煉の中で他でもなく自我に対する執着を取り除くことであり、意識的にまたは無意識的に自分自身を証明することをかえって助長してしまうようなことをしてはいけません。法を証明することと修煉は自我を取り除く過程でもあります。これをやり遂げることができれば、本当の意味で自分自身を証明したことになります。常人のことを最終的に皆さんは放下しなければならず、常人の全ての執着を放下してはじめて常人から脱皮することができるからです。」(『アジア太平洋地区学習者会議での説法』より)

 私は自分の法を実証する中で“自分のため”の部分を見つけ、本当の大法弟子との距離は甚だしいものだと感じた。しかし私は完全にそのようになることは実に難しいことで、ただ私のための考えを排斥するばかりではなく、十分な正念、意思の力を持ってそれを抑制し、溶け込まなければならないと感じた。この“正念”とは考えるだけで、口先でいうだけでは足りないのだ。

 二日後に、私はあるお客のところで業務の仕事を終えてから、ビニール袋の中に入れてあるディスクをこの地区に配布しようと思い立ったが、白昼で、地区には通行人も多く、飛んでくる視線にも死角はないようだ。私は機会を狙って、ある廊下の中に一枚のディスクを入れてから、そそくさと地区を出た。帰りの車を待っているとき、私は非常にがっかりしていた。今日もまた中途半端に終わったと。最近私はいつも配り残した真相資料を家まで持って帰っていた。最後まで成し遂げれない。どうやって突破することができようか?正に自分を責めているとき、車がやってきた。乗車しようとすると、携帯が鳴り始めた。午前のお客がまた問題が起き解決したいことがあるとの電話だった。私はすぐにまた地区に戻ってみると、実に些細な事件だった。行かなくても良かったのに、どうして私を探さなければならなかったのか?無意識の内に私の手がビニール袋の中のディスクに触れた。私は即座にこれは私に今日の使命を完成させるためのチャンスだと分かった。自分の束縛を突破しなくては!そう思って師父の慈悲を感じて私は思わず涙を流した。私が地区を出ると、ある曲がりくねった小道がアパートに続いているのを見て、得るものは皆縁のある者なり、どうして通行人だろうと居住民だろうと区別することがあろうか!と私は考えた。

 帰宅の途中に、“責任”という二文字が私にその重みを十分に感じさせた。「あなたは修煉者なので、威徳を持たなければなりません。あなたの威徳はどこから来るものなのでしょうか? この厳しい環境の中で自分を放下し、自分を無くし、大法弟子として完全に法のために責任を持つというところから来ているのではありませんか? このこと自体は威徳ではありませんか? しかも厳しい環境の中でやり遂げたことなので、なおさらそうです。自分を強調し、自分のための考えがあればあるほど、威徳はありません。そのために行ったことも成功しにくく、良く行うこともできないのです。大法のことは他でもなく最も神聖なことであるべきなので、自分の観念、自分の要素を持たなければ持たないほど、良くなり成功する可能性が高いのです。」(『アジア太平洋地区学習者会議での説法』より)。

 私が以前真相を伝えるとき、常にあまりの忙しさのために、良くものを忘れ、いつも疲れ果てて、妨害も多いと感じていた。今となってそれは大法弟子が法を実証しているのではなく、唯常人が良いことをしているに過ぎないと感じた。だから容易に邪悪要素に隙を乗じられ、成し遂げたことも満足できないものだった。

 本当の大法弟子は特殊な使命を背負い、自我を忘却し、常人の執着を放下するものである。ただ法に対する完全な責任および正念と衆生を済度する慈悲を持つことに限って、簡単に成し遂げられて、それで修練者の威徳、法の威力を体現することができる。それこそ本当に法を実証することである。

 個人の認識であり、適当でない所は同修の慈悲なる指摘を願う。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/11/12/88995.html