観念の束縛を捨て 発正念を重視して内外をきちんと整理する
文/大陸大法弟子
【明慧ネット2004年11月23日】観念は自分を縛るだけではなくて、同じ様に他人をも縛ってしまう。特に一つのグループとしての観念は縛る力が更に大きくなる。
かつてとてもよく大法を実証していた同修がいた。しかし商売が忙しくなると、学法を修めることや発正念を重視しなくなり、やがて法を実証する事も少なくなった。気を許した人やかつて彼と接触のあった同修は皆彼を探して話したことがあった。そして法について彼が高まってくるように助けようとしたが、効果はすべてよくなかった。それから彼を知っている多くの同修は“彼が商売の中で落ちてもしょうがない”と思い、ますます彼と疎遠になった。それによって彼は共通の精進の環境を失った。この2年彼は本当に商売の中で落ちてしまい自力で抜け出せなくなった。
もちろんこれは彼自身の要素と関係するところがとても大きいと思う。しかし私が言いたいのは、このように修煉者が形成した“彼が商売の中で落ちてもしょうがない”と思うこの強大な意念の作用が彼の身を束縛する大きな力になったのではないか!ちょうど旧勢力に彼を迫害する口実を探し与えてしまい、ずっと彼を精進できなくさせた。このような情況は比較的に普遍性があり、執着を放下できず修めない人、他の訳の分からない教を信じに行った人、邪悟の状態に入った人、これ等すべての人にこの問題が存在している。
師父は私達に一人も落ちないようにと教える。私達は彼を助ける前に、まず“彼が商売の中で落ちてもしょうがない”というこのような観念を変えなければならない。そのため私達は徹底的に全体の空間場の中に存在するこの変異した観念を一掃する。この点をやり遂げるため、私達はすべての人に対して同時に存在する自分自身の空間場をきちんと整理するように求める。それから更に発正念して彼の空間場の中に存在するこれらの邪悪な勢力も整理する。最後に法について彼が高まってくるように助ける。
実は多くの状況をすべてこのようにすれば、効果はやがてよくなる。しかし多くの情況の下では、問題を出した人とその学習者の背後にあって直接助けに行った人がお互いに張り合っている。もし大法弟子が一緒になって正念でその他の空間から来るあれらの邪悪な生命を相手にしたならば、問題を出した学習者は意識が回復しやすく、更に分かってきて、比較的順調に法の要求に添って行動する。もし一掃されなければ、問題を出した人はもともと執着があり、その執着は邪悪にコントロールされ易い。すでに思考せずに邪魔から命じられる事に慣れてしまっている。だから執着の大きな山と邪悪なコントロールが二重の妨害となり、自分の意志と正念によって自分自身を徹底的に変えるのは、とても難しい。
このような現象が存在する同修の観念の束縛を捨てることを望んで、主導的な立場で彼らに発正念すると同時に、彼らが法に基づいて高まってくるように助ける。
(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/11/23/89790.html)
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