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江沢民および中国共産党が相互を利用しあって法輪功を迫害することについての評論(一)

 

 【明慧ネット2004年11月27日】

                                                           前書き

 張付珍さんは38歳くらいで、山東省平度市現河公園の元女性従業員であった。彼女は2000年11月、上京し法輪功のために陳情したが、拉致された。ある情報によると、公安局関係者は張付珍さんの服をすべて脱がしてから、髪の毛をすべて切り落とした後、彼女を侮辱し始めた。「大」の字でベッドに縛られたので、大小便はすべてベッドの上で済ましていた。後に、公安局関係者が彼女にある種の毒を注射すると、張付珍さんはすぐに苦痛のため狂ったかのようにもがき始め、そのまま彼女はベッドの上で痛ましくも悶絶しながら死亡した。「610オフィス」の官員たちは全員、その場で一部始終を見ていた(明慧ネット2004年5月31日による報道より)。

 黒龍江省万家労働教養所に、妊娠6、7ヶ月の、ある妊婦がいた。両手が強制的に桁に縛られたまま、足を乗せていた椅子が蹴飛ばされた。そのため体全体は宙に浮いていた。手を離すとすぐ急速に落下するため、この妊婦は筆舌に尽くしがたい苦痛を伴う虐待を受け、流産してしまった。さらに残酷なのは、警察は、妻が虐待される様子を全て、夫に側で見るように強制した(明慧ネット2004年11月15日、万家労働教養所で百数日の残酷刑を受けた王玉芝さんへの取材報道より)。

 耳にするのもおぞましい、こうした残酷な案件は、現代の中国で起きていることだ。しかも、その迫害は、法輪功学習者の身の上で起きている。そして、これはまた、五年間にわたって継続的に迫害されてきた無数の虐殺事件における氷山の一角にすぎないのである。

 改革開放して以来、中国共産党は国際社会で積極的な、進歩的な一つのイメージを作り上げるのに全力をかけている。だが、法輪功への血なまぐさい、そして理性を欠いた迫害が近年広範にわたり、その凄まじい圧迫および手段の残忍さは、国際社会に中国共産党の真実な一面を再び露呈し、中国共産党の人権における最大の汚点となった。責任を警察の堕落だと思いこみ、中国共産党は改善され進歩していると、人々が誤認している現在、今回の上から下まですべてにわたる組織的な法輪功への迫害は、人々が抱いていた、その幻想を徹底的に打ち下した。「なぜこのような血なまぐさい、かつ荒唐無稽な迫害が、中国で発生しうるのか?二十年前の文革に対して“混乱を静めて正常に戻し”たばかりの今日、なぜ歴史は再び邪悪循環に墜落したのか?なぜ“真善忍”を原則とする法輪功が世界60カ国にも普く伝えられたのに、たった一国、中国だけで迫害に遭わなけらばならなかったのか?今回の迫害で、江沢民および中国共産党とは一体どんな関係にあるのか?」と、多くの人々は考えるようになった。

 江沢民には徳も無ければ能力もない。もし中国共産党という、殺人および嘘のでっち上げを専門とする、正確に動く暴力マシンがなければ、全中国に波及し、ひいては海外にも及んだ大量虐殺罪を発動することは、彼には決して出来なかったのである。同様に、もし江沢民という強情で独断専行のような邪悪な独裁者がいなければ、目前の開放政策および世界と軌道を接する国際情勢の中で、中国共産党も歴史の潮流に逆行して動けなかったはずである。まさに江沢民および共産党の邪悪な存在との相互による呼応、共鳴こそが、まるで雪山を登る者の声と積雪との共振で雪崩のような災難を引き起こすように、江沢民および中国共産党も相互を利用しあって、弾圧の邪悪さを古今未曾有ところまでに拡大することができたのである。

一、 成り上がりの、類似する歴史がもたらした、同様の危機感

 江沢民は1927年に生まれた。中国共産党が常に人民にその血なまぐさい権力闘争の歴史を覆い隠してきたように、江沢民も常に中国共産党および人民に彼の売国奴の歴史を覆い隠してきた。

 江沢民が17歳の時、世界ではファシズムに反体する戦争の勢いはすでに非常に激しくなっていた。愛国青年たちが次から次へと前線に馳せ参じて抗日救亡運動に参加するとき、一方江沢民は、汪精衛の傀儡政府が1942年に南京で創設した偽中央大学で高等教育を受けることを選択した。様々な調査によれば、その理由とは、江沢民の父である江士駿は日本が江蘇を占領している間、中華侵略日本軍の反華宣伝機構の高官に任命されていたためである。正に正真正銘の売国奴である。

 国を売る売国奴としての面においても、江沢民は中国共産党とまるで一つのわだちから出たように、中国人民に対して感情が欠乏していたので、思うままに中国の人民を虐殺することができた。中国共産党が国内戦争において勝利を獲得した後、江沢民は中国共産党に紛れ込み富貴を求めるために、自分は早年に中国共産党に加入し、後に賊に撃たれて死んだ叔父江上青の養子となったと偽証し、この関係を利用して数年間で、初級幹部から電子工業部の副部長へと昇進した。江沢民の昇進はその本領によるものではなく、人間関係で上手く立ちまわったためであることは、明らかだ。江沢民が上海市委書記として、毎年上海で春節を過ごす李先念氏、陳雲氏などの党内の元老に対して媚びへつらいを極めた。かつて、李先念に誕生日ケーキを送るため、堂々たる上海市委書記様が大雪の積もった大地の上を数時間も恭しく待っていたのである。

 1989年6月4日に起きた“64”天安門事件は、江沢民生涯のもう一つの転換点となった。彼は強力な弾圧を通して事実をあるがままに報道する『世界経済導報』を弾圧し、人民代表大会委員長の万里氏を軟禁すること、および“64”事件への弾圧を支持したことで中国共産党の総書記まで上ったのである。64事件よりずっと前に、江沢民はすでに鄧小平と密かに手紙を交わし、“きっぱりとした措置”を採用するように、でなければ“国および党も歿する”と要求していた。この15年来、江沢民はさらに“安定はすべてを圧倒する”ことを理由にして、異議を唱えたすべての人士および独立信仰団体に対してほしいままに弾圧虐殺を行ってきた。

 中ロ両国は1991年に国境線を決める際に、江沢民はツアー(ロシア皇帝)および旧ソ連の中国に対する侵略を全面的に認め、『アイグン条約』を始めとするすべての中ロ不平等条約を引き受け、百数十万平方ヘクタールの中国領土を売り出した。江沢民の略歴を見渡すと、彼は売国奴の長男として烈士の遺児を偽証し、身をもって共産党の“騙し”を実践したのである。64天安門事件虐殺を支持し、民主化運動および信仰の人士を弾圧することで、自ら共産党の“殺し”を実践したのである。中国共産党はかつて共産国国際遠東支部処としてソ連の命令に従い、江沢民は無償で国土を売り渡し、身をもって共産党の“売”を実践したのである。

 江沢民および中国共産党には、卑劣な成り上がりの、類似した歴史を持っている。このため両者は、権力に対して極度な不安感を持つことが避けられない運命となった。

つづく

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/11/27/90170.html