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江沢民および中国共産党が相互を利用しあって法輪功を迫害することについての評論(二)

 

 【明慧ネット2004年11月27日】

 二、 江沢民は中国共産党と同様に“真善忍”を恐れている

 国際運動の歴史は数億人の血で書かれたものである。共産国家のほとんどは、スターリン式の粛清を経験してきたのである。濫りに無辜な人民を殺すとすぐに百万、千万に上る。前世紀90年代に、ソビエトが解体し、東欧に激変をもたらし、共産党陣営は一晩のうちに大半の山河を失った。中国共産党はこの事件から得られた教訓とは、即ち弾圧を停止し、広く言論発表の道を開かせることは自ら滅亡を招くことになる。もし広く言論発表の道を開かせたら、血なまぐさい暴行はいかにして覆い隠そうか?イデオロギー上の騙しはどうやって自説のつじつまを合わせることができようか?もし弾圧を停止すれば、人民は恐怖および威嚇を失うようになり、共産党以外の生活方式および信仰を選ぶようになるじゃないか?共産党の生存を支える社会基礎はどこにあるものか?中国共産党はその形式がいろいろ変わっても本質が変わることはない。そのため民衆を騙すなら必ず死ぬまで騙さなければならない。人民を弾圧するなら必ず最後まで弾圧しなければならない。これは“64”事件の後に声高に“すべての不穏な要素を萌芽の状態のうちに消滅せよ”と叫ぶ江沢民が極度の恐怖の中で出した結論である。

 ちょうどこのときに、中国に法輪功が現れた。法輪功は最初からたくさんの人に病気治療および健康保持に不思議な効き目の持つ気功だと考えられていたが、後に人々はだんだんと法輪功の核心は簡単で学びやすい五式の功法ではなく、“真善忍”を持って人たちに良い人となるように指導することにあることに気づいてきた。

 (一) 法輪功は“真善忍”を信じ、共産党は“偽り、悪、闘争”を信じる

 法輪功は“真”を唱道する。これには“本当のことを言い、偽りのないことを成すことを含めている。しかし中国共産党はその反対に常に嘘および洗脳に頼ってきた。もし人々が本当のことを言うようになれば、民衆は中国共産党がもともとソ連に頼って、殺人、拉致、逃亡、アヘンの栽培、偽の抗日などで家業を作り上げたことを知るようになる。“嘘を言わなければ偉業は成し遂げないものだ”、政権を打ち立ててからまたこれまで各回の運動の中で累々の血の債務を負い、これは中国共産党にとって正に最期の到来である。法輪功は“善”を唱道し、事件が起きたとき他人を考慮し、人が良いことをするのを助けることも含められている。しかし、共産党は常に“残酷に闘争し、無情な仕打ち”を提唱してきた。中国共産党の模範英雄である雷鋒さんは“敵に対しては厳しい冬のように冷酷無情でなければならない”といっている。実際のところ中国共産党は敵に対してだけでなく、自分側の人に対しても大して変わらない。中国共産党の開国元老、元帥そして国家主席をも含めて、皆少しの情けの容赦もない批判や殴打、残酷刑などを受けていた。“階級の敵”に対する虐殺は、なおさらそれ以上に恐ろしいものである。もし“善”が社会で優勢に立ったら、それらの“悪”を基礎とする群衆の運動はもう出現できなくなるのである。

 『共産党宣言』の中で「今日に至ってすべての社会の歴史は皆階級闘争の歴史である」と述べられている。これは共産党の歴史観および世界観を代表している。法輪功は矛盾が現れてきたら自分の問題を顧みるように唱道している。この種の世界観は間違いなく中に向かって反省するもので、共産党の外へ向けられた闘争哲学とはきつ然と対立している。

 しかしながら、闘争は、共産党が政権および生存を維持するための主要な手段である。周期的に粛清する政治運動を発動することは、正に自分を絶えず充電し、“革命の闘志を煥発させる”ためである。この種の暴力および嘘によってさらに強化させ、熟知させる過程こそが、また人々の恐怖を刷新するもので、それはその統治の過程を維持するためである。

 このように、イデオロギーから言っても、共産党の生存のよりどころとなる“哲学”は法輪功の教えとはきつ然と対立するものである。

 (二) 信仰は人に恐れを知らないようにさせるが、中国共産党は逆に恐怖によって政権を維持しなければならない。

 真理を認識し、そして十分に理解した人は、恐れを知らないものである。キリスト教はかつておよそ三百年間の迫害を経てきた。無数のキリスト教徒はローマ皇帝に斬首され、焼死され、溺死され、ひいてはライオンの餌にされてきたが、キリスト教徒は屈服しなかった。歴史上の佛教は法難を経験するときにも、同じような節操を堅く守って屈服しない表現がそこにあった。

 無神論宣伝の一つの重要な目的とは人々に天国も地獄も、善悪応報も信じさせないためである。そのため良心による束縛を放棄し、現実の栄華および享楽ばかり重視するようになる。このとき人間性の中における弱点に対して操作し、脅迫し、利で人を釣るのに充分な効力を発揮できる。しかし信仰者は生死および紅塵をも看破することができるため、このときとなって世俗の誘惑および生命の威嚇はまるで鴻毛の如くになり、共産党に人をコントロールする力の入り所を失わせるのである。

 (三)、法輪功の道徳面での高い基準は中国共産党にとって耐え難いものである

 1989年の“64”事件以来に、中国共産党のイデオロギーは徹底的に破産した。特に1991年8月にソビエトの崩壊および続いてくる東欧の激変は、中国共産党に極大な恐怖および圧力をもたらした。内外共に行き詰った形勢は、共産党統治の合法性とその存続に空前の挑戦をもたらしたのである。このときの中国共産党にはもうマルクス、レーニン、毛沢東らの元の本旨主義でその党員を整合することができなくなり、かえって全面的な腐敗を持って党員の忠心を交換によって手に入れるようになった。言い換えれば、誰でも党についていけば、党は彼に汚職行為などの方式で入党しない人の得られないメリットを手に入れることを認めた。特に1992年鄧小平の南方巡回以来、中国は役人ブローカーの横行から土地産業および株式市場の投機まで、情婦からいたるところでの扇情的風俗、賭博、薬物乱用などの蔓延まで。“洪洞県内にはもう良い人はいない”とまでは言えないものの、しかし民間はすでに中国共産党の腐敗を一掃することに確信を失い、中級および上級の幹部の腐敗の割合は半分以上だと考えるように至ったのである。

 (四)、法輪功の発展および管理方式は中国共産党の嫉妬の元となった

 法輪功の発展の方式は人から人へ、心から心へ伝わり、採用される管理方式は来るも去るも自由で、緩い管理である。これは中国の厳密組織とは全く異なっている。それにもかかわらず、中国共産党の毎週一回、ひいては数回にわたる政治学習、組織生活はまるで形骸化されたものである。党のイデオロギーに対する党員の承認はほとんどゼロである。しかし、法輪功学習者たちは自覚を持って“真善忍”を実践している。それと同時に、法輪功の心身の健康に対する改善、修練人数を二乗の速さで増加させ、修練者は自ら望んで李洪志先生の諸著作を学び、そして自費で法を広めていた。短い7年間の時間で、無から発展して法輪功学習者は、一億人まで発展した。その当時に、およそすべての中国の公園で、法輪功の煉功する際の音楽が流れていた。

 共産党は、法輪功が中国共産党と群衆を“争奪”している“宗教”であると言いふらしている。実際のところ法輪功が人にもたらしたのは一種の文化であり、中国人のすでに遺失してから久しくなった祖先の文化および伝統の根である。江沢民および共産党がこれまでに法輪功を恐れているのは、この種の伝統的な道徳がひとたび群衆と溶け合って一体になってしまえば、いかなる力もその迅速に拡大する勢いを阻むことができなくなるからである。こうした生得の伝統は共産党に数十年の間に切断され、改ざんされた。再び伝統自身を拾い上げることは歴史の選択であり、一種の広大な群衆が苦難を経験した後に自分の選択した帰結である。この種の選択の必然となる結果はつまり是非を弁え、邪悪を捨て去ることである。つまり共産党に対する根本的な否定および除去でもある。これでは中国共産党の死の穴を指したようなものである。特に法輪功を修練する人数が中国共産党の人数を超えたとき、中国共産党の内心から発してきた恐怖と嫉妬は想像に難くない。

 これと同時に、中国共産党の社会へのコントロールは徹底されたものである。農村は“すべての村には党の支部がある”、都市の中で党の支部は街道オフィス、軍隊、政府および企業の最も末端にも党の組織がある。この種の絶対的な独占性および排他性は中国共産党が政権を維持するための重要な手段である。『憲法』の中でその名を美化して“党の指導を堅持する”と述べられている。しかし、法輪功の修練者は明らかに“真善忍”を基準としたいと心から願っている。中国共産党から見れば、これは全く受け入れることのできない“党の指導を否定する”ものである。

 (五)共産党は、法輪功が“有神論”を信仰することでその政権を握る合法性を脅かすと考えている

 本当の有神論の信仰は、共産党にとっては必ず重大な挑戦となる。なぜなら共産党が政権を握る合法性の源は所謂“歴史唯物主義”である。“人間天国”を建てるためには、人間の“先鋒隊”に頼らなければならない、それはつまり“共産党”の指導である。同時に“無神論”は共産党に随意に道徳の善悪を解釈できるようにさせたもので、そのため本当の道徳はなく、民衆はただ党が永遠に“偉大で栄光に満ちて、正しい”とさえ覚えとけばそれでよいことになる。

 しかしながら、有神論は民衆に一つの普遍的な善悪の基準をもたらし、法輪功学習者にとって、ある事柄が正しいかどうかは“真善忍”を持って判断するものである。これは明らかに中国共産党の一貫した“統一思想”にとって障碍となったのである。

 続けてまとめるなら多くの理由があげられるが、上述された五つの原因の中のいずれも、中国共産党にとっては十分に致命的である。実際のところ江沢民が法輪功を弾圧するのも同じ原因からもたらした結果だといえよう。

 江沢民は嘘の略歴を報告することで家業を作り上げた。もちろん“真”を恐れるのである。民衆を弾圧することでとんとん拍子に出世したので、もちろん“善”は好きではない。党内で互いに腹を探り合って暗闘することで権力を維持したため、もちろん“忍”も嫌いである。

 江沢民の度量の小さいこと、嫉妬心の強いことは、ある小さな事件から分かる。浙江省余姚県(現在は市となっている)には“河姆渡遺跡博物館”があり、全国の重要な文物を保護している施設である。当時の“河姆渡遺跡博物館”の看板の題辞は喬石に依って書かれたものである。1992年9月に、江沢民が参観する際に喬石の書いた題辞を見ると、すぐに暗い顔となった。同行者らも非常に緊張し始めた。なぜなら彼らは江沢民が喬石を受け入れないことも、また江沢民が自分をひけらかすのが好きで、どこに行ってもその場所で題辞を書き記すようにしていることを知っているからである。“済南市公安局交警支隊”および“鄭州市退職エンジニア協会”でさえも題辞を書き記すようにしていた。博物館の幹部は度量の狭い江沢民に対するもてなしが不行き届きとなるのを恐れて、1993年5月に、博物館が整理後に再び対外に開放されるのを口実にして、この機会で江沢民の題辞に換えたのである。

 毛沢東は“雄文四巻”と称されている。『鄧小平文選』の中にも“猫論”の実用主義の思想がある。江沢民は苦労してやっと三つの言葉を作り出して(聞くところによれば元の作者は王コ寧である)、またそれを“三講”と名づけたのである。本が印刷されてから、中国共産党組織による系統的な宣伝を経て、強制的に発注させることで初めて売り出されるようになった。しかし、党員は江沢民に対して少しの敬意もなく、却っていたるところで彼と女性歌手とのスキャンダル、彼が国外で“オ・ソレ・ミオ”を歌ったこと、およびスペイン国王の前で髪の毛をすくなどのスキャンダルなどを広めた。しかしそれに対して法輪功の創始者は平民の出身で、説法するときにいろんな教授、専門家、留学生が集まってくる。たくさんの博士、修士などが千里をも遠いといとわずに説法を聞きにやってくる。李洪志先生が充実した明快な話を数時間講じても原稿は要らずに、直ちに説法の録音を紙に移せばすぐに出版して本となる。これらのすべては虚栄心、嫉妬心および度量の小さい江
沢民にとって我慢ならなかったのである。

 江沢民の生活は極めて荒んで腐敗していた。自分の豪華な専用機を購入するために9億元も使い込んだ。国庫から数百億人民幣を取り出して息子の商売に使わせた。姻戚関係を利用してすべての親族および腹心を部級以上の高官まで抜擢した。部下の汚職行為を庇護し、すべてにおいて頂点を極まっている。そのため、江沢民は法輪功の道徳の力を非常に恐れていた。さらに法輪功の講じる天国地獄、善悪応報が本当であることを恐れていた。

 江沢民は中国共産党の最高権力を手に入れたものの、政治における業績および才能に欠
けているため、常に自分が中国共産党の残酷な権力闘争の中で失脚することを不安に思っていた。その“核心”の権威に非常に敏感になっていた。自分と見解を異にするものを取り除くために、江沢民は陰謀詭計をめぐらして政敵の楊尚昆、楊白氷兄弟を取り除いた。

 1997年の中国共産党十五大会および2002年の中国共産党十六大会のとき、江沢民は政敵
を失脚させたが、彼自身は規定を顧みず、権力を握ったまま退こうとしなかった。

 1989年の“64”事件の後に、中国共産党の新しい総書記である江沢民らはある中外記者会見を行うときに、フランスの記者が、ある女子大生が64事件のために四川の農場にレンガを運搬するように配置されて、地元の農民たちに何度も強姦されたことを聞いたとき、江沢民は「あなたの言っている事情は事実であるかどうかは知らないが、彼女は暴徒です。もし本当ならば、それも罰を受けるだけのことがあります」と答えた。文革の中で張志新は中国共産党の監獄の中で輪姦されてから喉を割られたことは、江沢民から見れば同じく“罪を受けるだけのことがある”であろう。ここからも分かるように江沢民の下劣で変態した残虐な人格が伺われる。

 概括的にいうと、江沢民の暗い心理、独裁権力への欲望、残虐な人格および“真善忍”に対する恐怖は江沢民が理由もなく法輪功を弾圧することを起こしたゆえんである。このことは共産党組織と極めて一致している。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/11/27/90170.html