日本明慧


師父の慈悲を冗談にしてはならない

 

 文/大陸大法弟子

 【明慧ネット2004年11月29日】私の知り合いで、99年7.20の数年前に法を得た一人の同修がいますが彼女は7.20以降、法を実証する中で積極的に多くの活動に参加して来ました。たとえば、横断幕を掛け出したり、真相資料を配布したり、人々に法輪功の真相を説明したりするなど表向きではとても精進していて、常人の角度から見ても正々堂々とした修煉者に違いありませんでした。しかし、法の中で法を認識することができなかったため、個人の利益の損得トラブルが起きた時に、大変な過ちを起こし大法に大きなマイナス影響を及ぼしました。

 今年の春のことです。ある日、彼女は私のところに訪ねて来た事がありますが、その時彼女の顔色はとても悪く、話しぶりもまったく気力が有りませんでした。当時、私は修煉者である限りこのような状態はあるべきではないと思いました。何があったのかと彼女に聞いたら、盲腸の手術を受けたと彼女が答えました。それを聞いた私は「あなた自身に何か問題があるのではないですか?原因を内に向かって探すべきではないでしょうか?大法に反することでもしたのではありませんか?」と、慌てて問い詰めました。私は何があったのか早く知りたかったので、残念ながらその結果については答えが出ませんでした。

 しばらく経ってから、彼女はまた訪ねて来ました。「家に帰って数日間ずっと考えましたが、やはりあなたには言っておいたほうが良いと思いました。実は、私のこの病気には原因が有るのです。私は大法の理に反する甚だしい過ちを犯しました。師父の慈悲深い済度に申し訳ありませんし、師父に合わせる顔もありません。今春、小河溝(川名)は洪水で水位が上がってたくさんの魚が外に流れ出ました。村の多くの人は魚をとり、乾燥・粉砕してブタのカルシウム補給飼料として使いました。これらの常人利益を目の前にした私は、殺生は修煉者にとっては絶対にやってはならないことだとわかっていながら、誘惑に負けて、大きな樽二つに魚をいっぱいとって来ました。このことが有ってから、私の体調は日に日に悪くなり、最後には盲腸の手術まで招いてしまったのです」と、彼女はことの経緯を私に説明しました。彼女の話しを聞いている途中から私は驚きの余り、全身にビッショリと汗をかいてしまいました。目の前に座っている表向きではそれだけ優れている同修があんな酷いことをするなんて、どうしても自分の耳を信じることができませんでした。

 私は彼女に「修煉はとても厳粛なものなので、自分が犯した過ちは自分で償わなければなりません。良く考えてみて下さい!その大きな樽二つの魚にはとれだけ多くの生命があり、それらを吊り上げ、また砂地の田畑で焦げるような日差しに乾して死なせるなんて、その苦痛といったらどれだけ残酷なものでしょうか。これからの修煉をどのように行うべきか、心を静めて良く考えてみて下さい!」と、厳粛に指摘しました。その後しばらくすると、彼女が末期腸癌にかかり、すでに肝臓にまで拡散していて、手術しても命が助からないので葬儀準備をしないさいと医師からはっきり言われたというのを他の同修から聞きました。

 これらの状況を聞いて、私ともう一人の同修は一緒に正念を発し、他の空間で彼女を妨害している全ての邪悪なものを取り除きました(後で聞いた話しですが、彼女が手術後目が覚めた時には意識がとてもはっきりしていたという)。彼女のことは、村大勢の人々を驚かせました。常人たちは大法に対して勝手気ままに論じ始め、大法に大きなマイナス影響をもたらしました。彼女の近隣の同修一人が、この問題について真相を知らない常人にどのように説明すべきかと相談に来ました。私は、これらは別に釈明し難い問題ではないので村の人々に「大法を学べばそれで保険にかかったわけではありません。永遠に病気にならないとも限りません。なぜなら、修煉はとても厳粛なもので、一人の修煉者として大法の要求に従って自分を厳しく律してはじめて健康な体を得ることができるのです。例えば、修煉者は殺生してはいけません。しかし、彼女は常人と同じように魚を捕って多くの生命を殺したのです。これは、大法の理に反することで許されないのです。だから、彼女はこのような悪果に見舞われたのです」と、説明したらどうかと提案したのです。私の話しを聞いて彼女は驚きのあまり、開いた口が塞がりませんでした。なんと彼女たちは近隣であり、毎日顔を合わせながら彼女がやったことに関してまったく知りませんでした。同修は村に帰った後に、人々にことの経緯を説明して、大法に対する常人の偏見を正しました。もっと驚いたことに実際、彼女は大きな樽二個分の魚を捕ったのではなく、乾して粉にして樽二つ分のブタ飼料になったそうです。彼女がどれだけ大きな業力をつくったのかは言うまでもありません。これらに対して慈悲で偉大なる私たちの師父は何度も機会を与え、一回また一回彼女を悟らせ、心性の向上を導いてくれたのです。

 数日前彼女は退院しました。彼女はやはり大法を得た修煉者であり、師父の弟子でありました。退院後、師父は再度夢の形で彼女を悟らせ、正法時期の大法弟子として正々堂々と修練ができ、全体の正法の進展に追いつくようにしてくれたのです。

 私たち弟子のために師父が代わりに毒薬を飲んだとの師父の説法を思い出す度に、私はいつも涙が止まりません。師父の慈悲に満ちた説法は未だにまるで昨日の出来事のように鮮烈に記憶に残っています。しかも、修煉の道で巨大な難を乗り越えて高次元を目指して向上できるように導いてくれました。

 今日私がこの文章を書いて皆さんに読んで頂こうとするのは、一人の特定の修煉者に対するというより、法に対する認識がはっきりせず、着実に正々堂々と修煉しない全ての修煉者に対して、表向きの表現より地道で着実な修煉を行うことを希望したいのです。修煉は同修に見せるものでなければ、常人に見せつけるものでもなく、確実に自分の常人の執着心を取り除き、百年千年の歴史の中で形成された人間の理を根本から変えることです。私たちはみんな師父の弟子であり、大法に対する残虐な迫害が続く特殊な時期に、師父と共に苦痛を分担することができないにしても、かえって師父が私たちの代わりにたくさんの苦痛に耐えるなどこのような申し訳のないお願いができるのでしょうか?

 現在、正法活動はすでにそろそろ終わりを迎えようとしています。私たちは大法弟子として必ず行うべき三つのことをしっかり行わなければならず、長い歴史の中で誓った大きな念願が実現できるように努力し続けなければなりません。「冷静に考えてみて下さい!あれらの良く行っていない弟子は、くれぐれも常人の執着を固執し自分の永遠の将来を台無しにしないで下さい!」(「2004年シカゴ法会での説法」の中で)

 最後に師父の詩『無迷』を持って、終わりたいと思います。

                           迷い無し

                       誰が天の主なのか
                       幾重なる次元が法の弟子から離れる
                       自ずと蒼穹の主だと称し
                       位置に戻る日は近付くのだが
                       誰がまだ迷いの中にいるのか?

2001年3月14日


(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/11/29/90249.html