日本明慧


北京へ大法を実証しに行った時の師父のご加護を思い出す

 バンコク 黄国華

 【明慧ネット2004年12月12日】2000年6月、私と妻羅織湘は再度広州から北京へ法を実証しに行った。私はそこで大法弟子達の中に、師父と大法のあの敬虔な心を見いだした。

 ある湖南省衡陽の同修が陳情に行った時の体験を話してくれた。家が貧しくて列車の切符が買えないため、夫ともう一人の女性同修と一緒に歩いて北京へ陳情に行くことにした。昼間物乞いをしながら歩き、夜は野原や山の斜面に野宿した。彼女の夫の体は虚弱で、10日間ぐらい歩くともう歩けなくなってしまった。彼女とあの女性同修の手元のすべてのお金を彼女の夫に与え、彼は列車に乗って北京へ行った。結局この二人の女性同修は37日間も歩いて遂に天安門広場に着いた……しかし、さんざんめった打ちにされた後、自分の姓名を言わなかったため、天安門公安支局の警官に車で北京通県の荒れ野原まで連れて行かれ、そこで放り出された。あの時の北京の夜はまだとても寒く、一文のお金もない彼女はその時すでに打たれて、もう歩けなくなっていた。道端にずっと横になっていたが、翌日午前4時過ぎ、差し迫った警笛の音に驚かされて目が覚めた。あの凶悪な警官たちはまだ彼女を見逃そうとしなかった。緊急事態で夜がまだ明けない内に、数十メートル登った所にあった井戸に隠れて、やっとこの劫難を避けることができた。また飢えを忍んで2日間歩き、ようやく師父のご加護のもと再び同修を探し当てられた。

 あの時、私達の涙はそれ以上抑えられなかった……午後続々と各地から百人を超える人がやって来て、皆一緒に声をそろえて《転法輪》を朗読し始めた。この家の扉と窓は皆特別に大きく、すべて開け放され、読む声もとても大きかった。庭の塀の厚さは12cm、高さは1.9m足らず。ぼろぼろのトタンの扉だった。しかし、不思議なのは扉の外に百人ものあの大きな声が、意外にも聞こえてこないことだった。玄関から門の入り口まで6、7メートルの距離があり、門を開いて0.5メートル以上離れてから、ようやく音を耳にすることができる。塀の上に上がれば、足を踏み入れて中を見ることができる。天目の開いた同修は師父が上に覆いをつけてくださり、上に大きな法輪があり、更に上には師父の法身が見守ってくださっていると言った。

 妻と北京に着いた翌朝、私達百人ほどは何回かに分けて公共バスに乗り天安門広場に行った。私と妻は一緒に大きな横断幕を広げた。車の上でどうしてか分からなかったが、私は動悸が打ってほとんどしっかり立つことができず、全身の力が無くなってしまった。私は恐れる心があるかどうかを探したが、別に恐れてはいないと分かった。きっと思想業力と後天の観念が邪魔しているのだろうと、法に対する正念を強化して、心の中で強烈にそれを排斥した。私は排斥しながら、ずっと車に乗って道を急いだ。天安門広場に着いてから、これらの思想業力、後天の観念などは全部消えてしまっていた。広場の中央に着き、私達多くの弟子は続々と大法の横断幕を開いた。その後、天安門公安支局の警官に捕らえられ、百余人が後ろの狭い道に押し込まれた。私達は集団で声をそろえて《論語》を暗唱し、公安局内で全員が煉功した。私達が皆名前を申告せず、その他の同修にも名前も住所も申告しないようにくれぐれも言い含めた。陳情にくる大法弟子はだんだん多くなり、北京に駐在する各地域の事務室に自分の地区の住民かどうかを見分けさせるほかなかった。各々の方言はとても特徴があり、標準語のできない弟子はちょっと話すと、すぐ見分けられて、連れて行かれた。それからはこれらの弟子たちはもう話をしなくなった。午後2時頃、思いがけないことに、空に法輪が現れ、弟子たちの目には皆感激の涙があふれた……

 それから、警官は私達を地方別に何回にも分けて分散した。私が釈放されそうになった時、もうすでに夜の11時を回っていた。私達5人だけが取り残こされて、鉄のかごに入れられた。その時、どうして私達を鉄のかごに入れるのかと思った。私達を釈放さないのではないか? と心の中で考え、師父がおられて法があり、何を恐れているのか! 約3、40分が過ぎて、警官は私達3人を呼び、北京駅まで連れて行き警官が去って行った。私達3人はゆっくり歩いて、先に尾行する人がいないかどうかを確かめた。駅の地下マーケットを回ってから尾行する人はいないことを確認した後、やっと各自それぞれ帰って行った。(他の二人は北京の人)。師父のご加護のもと、夜中の一時過ぎ、無事に同修たちの元に帰って来た。


(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/12/12/91237.html