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大連市の法輪功学習者、王哲浩さんは迫害により死亡(写真)

 【明慧ネット2005年2月23日】王哲浩(男性、27歳)さんは、大連軽工業学院経済投資学科を卒業後、大連化学工業設計院のコンピュータ技師として、また、製図員としても勤めていた。1999年7.20から法輪功が弾圧されて以来、長期にわたり繰り返し不法に拘禁されたので、心身共に深刻なダメージを受けて、2004年12月25日に亡くなった。

                                                        王哲浩さん

 王哲浩さんは1995年から法輪功を修煉し始めて以来、法輪大法の原則である、“真、善、忍”に従って厳しく自分を律し、職場で一所懸命仕事に取り組み、上司と同僚たちに高く評価された。法輪功が迫害されてからこの5年間で、王哲浩さんは法輪功の修煉により、かつて6回も不法に拘束されたことがある。1999年7.20に、彼は北京へ陳情に行き、その時に拘束されると大連に送還され、その後、姚家留置場で10日間拘留された。同年の8月初めに、江沢民が法輪功への弾圧情況を視察するために大連に来た時も、王哲浩さんは“注意すべき人物”として、不法に20日間近く拘留されていた。

 迫害者から繰り返し嫌がらせを受けた王哲浩さんは、やむを得ず仕事を辞めて別の所に引っ越したが、これで迫害を逃れることはできなかった。1999年10月初め、大連五一広場派出所の警察は、突然、王哲浩さんの住まいに踏み込んで捜索している人を探しに来たが、見つからなかったため、王哲浩さんとお母さんを連行して何の理由もなく15日間拘留した。その後、王哲浩さんは更に麻薬中毒回復所に送り込まれて、そこで1ヶ月迫害された後、大連教養院に送致されると1年間の労働教養を言い渡された。しかし、家族たちが知り合いの人に頼んで公安局に10000元の保釈金を払ったので、早めに釈放された。この保釈金は今でも返金されていない。

                     保釈金10000元の領収書

 2001年4月24日、大連市公安局一課の陳欣など数名の警官は、突然王哲浩さんの住まいに踏み込んで、何にも言わずに王哲浩さんに手錠を掛けると家を捜査し始めた。王哲浩さんが「捜査令状を持っているか?」と彼らに尋ねると、警官は、彼の顔を数回殴るなり「これが礼状だ。」と答えた。

 王哲浩さんはそのまま逮捕されて3年間の労働教養を言い渡された。その前後に大連教養院、関山教養院、本渓教養院、葫芦島教養院などを転々とさせられ強制洗脳、残酷な体刑などの迫害を受けていた。大連教養院で、強化管理なるものをやられた時は、両手両足共にベッドに縛られて身体を固定されたことがある。本渓教養院では、全身が血だらけになるまで暴行されたことや、数回懲罰の独房に入れられて、便所に行くことや飲み水を制限されたことがある。

 2003年5月に、王哲浩さんは葫芦島教養院で理不尽な迫害を抗議するために絶食した。このために、看守の劉国華、宋元彬、齊治平、範永傑、王永明、王大柱は、王哲浩さんの背中と両脇に6本もの電気棒を用いて電撃した。電撃されたところには水泡がたくさん出来た。それから彼らは王哲浩さんの両手をベッドに縛って、胃にカテーテルを挿し込んで大量の薬物とビールを注入した。3日目早朝に、王哲浩さんは一時意識を失ったが、救急措置で蘇生した後、胃にカテーテルを挿し込まれて食事を注入された。また、王哲浩さんを眠らせないために、監視者を付けて24時間監視し続けた。

 2003年10月19日、看守の劉国華は、王哲浩さんが“思想報告書”の中で法輪功の素晴らしさを説明する文章を書いたことに対して言い掛かりをつけると、王哲浩さんを懲罰用の特別監禁室に送り込んだ。これに抗議するために、王哲浩さんは再度絶食し始めた。長時間の絶食により、体がかなり弱くなって排尿が出来なくなった王哲浩さんは、やっと病院に連れて行かれた。病院で、王哲浩さんは導尿管を長時間留置されたことによって、尿路感染症を起こし、やがて心臓に頻脈と不整脈が現れて、病状が悪化し、危篤に陥った。この状況になってから、やっと教養所は家族に5000元の保証金を請求した後、仮出所を許可した。

 家に帰った王哲浩さんは、ずっと正常な排尿が出来きずに、2004年12月初めに全身に浮腫みが現れて、腹部鼓脹をきたし、赤黒い液体を吐いた。その後、時々意識がはっきりしない場合があったが、血圧、脈拍、呼吸などの生命指標はすべて正常で、医者は腹部鼓脹の原因が最後まで分からなかった。2004年12月25日に王哲浩さんは亡くなった。


(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/2/23/96015.html