復習:四中全会は修煉人の執着するものではない ◎師父による評注付き
『四中全会は修煉人の執着するものではない』についての評注
この文章は非常によく書けています。大法弟子が法を実証する目的がはっきりとしています。正念が強く、理性もはっきりとしています。すべての中国大陸の大法弟子たちがこの文章を読むことをお薦めします。
李洪志
2004年9月19日
【明慧ネット2005年3月3日】この頃、常人社会では四中全会(注1)が開かれ、一部の学習者らは中共の某指導者が適任と考え、邪悪の首領が権力を彼に譲ることを希望するといった、常人に依頼する考えが現れてきた。一部の学習者らは毎日これらのことに強く心を惹きつけられ、気持ちもこれらの情報と共に動揺している。このような問題に関して、師父は毎回の説法の中で、既にはっきりとおっしゃっており、なぜこれほど常人の力を介して、大法の名誉を回復し、大法に一つの公正な合法的な環境を提供することに、執着するのであろうか?師父が私たちの執着についておっしゃった法を、なぜ肝心な時にいつも思い出せないのであろうか?
私たち大法弟子が、真相を伝えることは、いかなる外在の影響も受けず、邪悪の首領が権力を維持するか否やに関わらず、私たちはより広範かつ詳細に真相を伝わなければならない。たとえ邪悪の首領が権力を喪失したところで、私たちも続けてここ数年間に渡る迫害を世の人々にはっきりと伝え、より多くの世人に何が起きていたのかを知らせなければならないのである。もし邪悪の首領が権力を譲ったにも関わらず、まだ続けて迫害を指示しているのであれば、私たちも続けて迫害を暴露すると同時に、その行った新しい悪行も暴露しなければならないのである。もし悪の首領がどうしても権力を手放さないのであれば、私たちも更に自分の内に向かって探すことで、より自分を浄化し、更に邪悪を取り除き、真相を伝えるのである。
中国政府の指導者について言えば、彼らが常人社会でどのような役目に就いたとしても、私たちにとって、すべての人は衆生の一員ではないか?彼らの未来も、彼らが大法に対してどのような態度を取り、迫害に対してどのように対処しているのかによって、決められるものではなかろうか?求める心を持って、常人に依頼し、社会の動向を観察するなどのすべてのことは、真相を伝えるための厳重な障碍であり、これらの不純な心は往々にして私たちの意図した通りに事が運ばなくなるようにする。この面における教訓はもう繰り返されてはならない。
また、最近各地の学習者らが交流する中で気付いたように、石家庄市区及び周辺の一部の農村部では、程度は異なるものの、いくつかの大法サイトでない資料が出回っている。中には、一部の法の破壊を意図する者によって、書かれたものもあり、例えば『金色大道』はその類のものである。そして、一部は資料編集室の学習者らが編集したものもある、例えば『中国は大変な問題に直面している』である。
『中国は大変な問題に直面している』という資料の文章は、常人のサイトから摘録され、その内容の中心とは、中央の高級官僚が、高級官僚専用の庭で、公式に集団煉功を行い、中国共産党中央は、法輪功問題のために会議を開き、激論の末、大喧嘩となる寸前に至ったとされる、まだ実証されていない、一部の常人社会で流転されている情報である。実は、これらの情報は、すべて常人のサイトに掲載された際、既に遅れた情報であり、今日になると常人のサイトすら、うやむやのうちに終わっていた話題なのである。
もし、あなたが大法の弟子としてではなく、社会の一員として、いかに行動するのかということであれば、基準は異なり、社会人にとって政治に参与しないという言われは存在しない。しかし、もし私たち修煉人が、政治に関する内容を真相資料として、常人社会において大面積に配るのであれば、マイナス的な作用がもたらされることであろう。なぜなら、それが直接大法の要求に背いているからである。私たちは口先で、他人に自分らは政治に参与しない、と告げてはいるが、真相を知らない常人の場合、言葉を聞くだけではなく、いかに行動するのかということも見ており、その行動が政治に参与しているかのように見えたならば、マイナス的な印象を持つようになり、いくら弁解したところで、聞き入れることはないであろう。これでは、人を真相の外側に押し出しているのではなかろうか?
一、 大法の修煉は政治に参与してはならない
この頃、中国共産党が四中全会を開き、邪悪の首領は辞職及び権力の交代に追われているなどの多くの情報が飛び交っている。私たち大法弟子は、いかにしてこれらの問題に対処すべきであろうか?もしそれが現実であれば、私たちはこれでやっと気を緩めることができ、環境も良くなり、新しい権力者が大法の名誉を回復するのを期待すべきだろうか?
今日、一部の学習者は、中央の某指導者は適任だから、邪悪の首領が政権から離れることを望んでいる。師父は毎回の説法の中ではっきりとおっしゃっているように、大法弟子には世の人々を救い済度する使命があり、それと反対に常人に大法の名誉を回復することを依頼してはならず、更に世の人々の運命を顧みず、自分の責任を忘れ、ただひたすら自分の苦しみが早日終わること期待してはならないのである。
常人が立ち上がって大法を支持し、大法が素晴らしいと言えることは、その生命の善良な表現であり、法が正される中で自分の位置を正しく置くことができた行為である。しかし一人の法を正す時期の大法弟子として、必ずはっきりとして私たちの道を正しく歩み、大法の純潔を守り、師父の教誨、そして「私が何度も強調してきたように、私たちは決して政治に関与し、政治に干渉し、政治に参与してはならないのです。」(『北京国際交流会での説法』)と講じられた師父のお言葉を銘記しなければならない。
常人社会で何が起ころうと、私たちの心は動じてはならない。大法弟子の歩む道は、師父によって按配された大法を実証する道であり、どのようにすれば正しく行えるかは、師父の要求された“三つのこと”の中に含まれている。
最近法を学ぶ中、次のように悟ることができた。それは、現在の情勢は、私たちが真相を伝えることに非常に有利であり、別空間の邪悪はもう支えきれなくなっている。大陸の北京及び海外のニューヨークにおける大決戦は、すでに法を正す中の最終段階における大戦略である。邪悪はもう支えきれなくなり、常人社会も大きく変化している。そのためいかなる大きな変化が起きたとしても、私たち大法弟子の心は動じてはならないし、外界に影響されてはならないのである。もしかすると、中国大陸の邪悪の首領が失脚するだろう(あるいは最後まで権力を維持する)、もしかして海外の多くの国々及び団体が、私たちを大きく支持するのかもしれない。しかし、大法弟子には私たちがどのように正しく歩むのかを指導してくれる、師父の説かれた法理がある。そのため、いかなる外在の条件の変化にも影響されてはならず、自分を放任し、常人と混同する認識及び表現が生じてはならないのである。
一方、多くの精進していなかった学習者らは、師父の最近の説法を見て、法を正すことが終わりを向かえ、本当に第一回目の大淘汰が訪れようとしているのに非常に驚かされ、次々と再び大法の中に戻って来ている。このように残された時間が非常に少なくなり、世の人々を救い済度する時間が非常に緊迫となってきた。一旦正法が終われば、まだ真相の知らない人々はもう救えなくなる。そのため私たち大法弟子は時間を大事に、全力で世の人々をできるだけ早く救わなければならないのである。特に今日の世人は、皆高い次元の生命によって転生されたものであり、今日が来るのを待つためにどれほどの苦難を経験したものだろう。人命を救うことは、どれほど重要であろうか。
この法を正す時期の最終段階に至って、私たちは心を落ち着かせ、法を以て、師と為すのである。衆生を救い済度する唯一の希望及び頼りは、今日に世間にある大法弟子である以上、私たちは法を正す時期の大法弟子の道を、正しく歩まなければならないのである。どのようにして大法を実証し、大法を擁護し、世の人々を救い済度するだろうと、必ず法の要求されたように行わなければならないのであり、決して基準を低下させ、更には常人と混同し、ひいては大法から離脱し、大法を破壊するようなことはあってはならないのである。
二、 厳格に法を以て師と為すこと
『明慧は縁のある人を救い済度し、新生は脳にある悪を取り除くことができ、人民の筆は刀の如くに鬼を困らせ、法輪大法は正見である』(洪吟二より)と師父が講じるのを見て、それなら“人民”は、海外の“人民新聞”のことを指しているだろうから、その上“人民新聞”は正面から大法を報道しているため、私たち大法弟子はここの情報を転載することは、大法に符合しているのだと考える人がいる。
この種の師父の説法の前後の意味を顧みずに、自分に都合の良い部分だけを引用し、自分の執着を覆い隠すやり方は、一旦自ら抜け出すことができなくなると、誤った道に入る恐れがある。
師父の新しい説法である『洪吟(二)』が発行されてから、数日も経たない頃、ある学習者の家で製作された宣伝ビラの情報が、すべて“人民新聞”からのものであり、当時配布されている各種の名称の宣伝ビラとの内容と大差がないことに気が付いた。その後、これらの内容を大法弟子の真相資料として配布すべきではない、という見解を述べたが、皆無関心であり、誰もこの宣伝ビラの製作及び配布を制止しようはせず、皆が同意し、それぞれの人には異なった悟りがあり、自分たちは配布しないからなどと言う人もいた。しかし、誰も本当に法のために責任をとり、自分に対して責任をとり、この作業に取り掛かっている学習者のために責任をとり、そして、この宣伝ビラを読む衆生のための責任をとろうとしなかったのである。
その後、数日前のある日、他の地区の学習者と出会った際、他の地区の学習者も、これらの宣伝ビラを目にしたが、その類の資料を持っている人に、これらは明慧ネットのものではないから、大法弟子の真相資料として、使うべきでは無いとしか伝えておらず、このようなことをする結果及び破壊の力について、厳粛には指摘しなかった、という話を聞いた。
法を正す最終段階となり、邪悪勢力の大法弟子の内部での妨害も非常に大きい。人々に理解されることのない、大法から逸脱した、ひいては大法を破壊する行為に走った人は、何時になってもいるものである。これらのことについて、もはや大法弟子による高度の重視が必要となってきた。最後となって、寄り道を探し、法も顧みず、大法に符合するかどうかも考えなくなってはならないのである。
例えば、最近の武漢市で、彫刻された仏像を購入し、法を広めるために使ったという事例、ある地区の腰太鼓を打ち鳴らし、大法から逸脱したという事例、ある地区の正念を発する口訣及び方法をむやみに変えるという事例(私たちの地区でも見られる)が、そうである。そして、私たちの地元では、法を学ぶ形式を行うものの、実質には学んでおらず、法を正すことから逃避し、一部の学習者をそのグループの中に引きずり込み、毎日分けの分らないことをやっているという事例もある。
一体なぜ、この人たちは大法の要求された通りにやらずに、いつも自分勝手に他の方法を作り出しているのに、それで自分は正しいと思い込むことができるだろうか?
師父の最新の説法が掲載される前に、皆が一緒に交流するときも感じたように、長い間、真相を伝える力及び効果はいつも合致を見ない。いつも真相を伝える面積があまりにも小さく、そして救われた衆生がまだまだ少ないと感じるが、ここ数年間宣伝ビラ、真相のCDなどの真相資料を累計すると、何回も配ったのにも関わらず、効果を見ないのは、一体なぜだろうか?
しっかり考えてみれば、師父は毎回私たちに「真相をはっきりと伝えなさい」とおっしゃっていた。大陸の大法弟子にはメディアがない。特に映像関係のメディアの場合、人に対する直接的衝撃及び影響力は非常に大きいものであり、目で見たものから情報を掴み取るのであるから、面と向かって交流したようになるので、人々が受けた影響ももちろん一番大きくなる。私たちには映像関係のメディアがなくとも、CDを配ることができ、そのCDの中で真相を伝えることはできるだろう。CDも数多く配ったし、常人の読む新聞も非常に重要であるから、真相の宣伝及び真相のパンフレットを製作し、情報量を増やすこともでき、その上に録音も付け加え、テレビ番組の途中放送もできるだろう。このように、考えられる方法を、私たちはすでにやっていた。
法を正す修煉の中で、大法弟子は主体であるが、あまりにも真相資料に依存し過ぎたため、長期に渡って自分自身の本当の役割及び価値を軽視するようになっている。しかし、資料は私たち大法弟子が、大面積に渡って真相を伝えるための道具に過ぎないのである。ネット上では、面と向かって真相を伝え、口を通して真相を伝えることの重用性及び法理での昇華についての助言は、常に絶えなかったが、全体としては未だに重視されていない問題である。
ここで述べたいことは、無意識のうちに、大法弟子は法に対する認識がはっきりとしないとき、あるいはこの段階における法の要求に、私たちが符合しないとき、邪悪によって隙に乗じられ、束縛され、法理において向上できなくなり、受身になり、そして効率の低い道を歩むようになる。先の交流の中でも挙げたように、皆さんもすでに気付いたと思うが、ここ数年間に渡って、資料を配る人のほとんどが、この種の大法弟子であり(必ずしもそういう訳でもないが)、そしてその他の大部分の人たちも、ほとんど資料を配らず、師父の説法だけを読むか、あるいは明慧ネットしか読まない人もいる。
資料を配る学習者の一部には、自分は口下手な人だと思い込んでいるため、その代わりに資料を配る道を選んだ。中には資料を配ることは、自分の長所であると思う人もいる。そして中には、こんなに多くの人々を相手にして、口だけで伝えるようでは、いつまで経っても終わらないから、資料を配るしかないと思う人がおり、面と向かって真相を伝える力は、非常に小さく、私たち全体の真相を伝える効果が限定されることとなった。
思想にこのような障碍のない多くの大法弟子は、すでに気付いたように、資料を配ると同時に面と向かって伝えることで、しばらく経つと、考え方も、弁舌の才も飛躍的な変化を見せるものである。更に重要なことは、面と向かって真相を伝えた後に、相手が本当に真相を理解したのか、どのようにすれば、より良く真相を伝えられるのか、どのような資料の効果が一番いいのか、そしてどの資料にはいかなる改良が必要なのかは、常に面と向かって真相を伝えると同時に、資料を配る人にしか得られない、直接的なフィードバックであり、それにより客観的かつ正確な理解及び判断を持つことができるようになる。
また、それによって初めて理性的に、自分の手中から配った資料が、切実に人々に正念を樹立させることができるようになる。資料を配らないことは、間違いなく一方に偏っているが、しかし多く配ることが目的ではない。私たちの目的は、人々に大法に対する正念を樹立させ、人々に迫害の邪悪さを知らせるためである。
依頼する心を取り除かないかぎり、誰に依頼しようと、必ず悪果を生み出すことになる。数年前のかの総理の事例、国連人権委員会への提案の事例、そして希望を共産党全人代表大会の結果に寄与する事例など、常人に依頼した教訓はもう十分だろう。もたらされた多くの損失及び困難も、私たちの生活及び法を実証する過程に反映してくる。例え依頼しているのは、大法弟子の資料編集室であるとしても、皆が皆資料編集室に依頼すれば、邪悪は資料編集室を破壊の的とし、誰も明慧の資料及び真相資料を手に入れることができなくなる。もし皆が常人の心を放下することができたら、自ら積極的に正念をもって法を実証するようになり、大法弟子の善良さ及び忍耐を持って積極的に、私たちのやるべき一切のことを実行することができたならば、これほど多くの悲惨な教訓は、生まれずに済んだのであろう。
至る所で資料編集室を設置することで、すべての人は資料編集室となり、大法弟子が真相を伝える自発性を十分に発揮でき、邪悪の資料編集室に対する破壊を阻止することができるようになる。しかしそれは口先だけで言うものではなく、法理さえ分れば実行に移さなければならないものである。例えば北京のある老年の大法弟子のように、一人で携帯式の複写機を購入し、資料の出所の問題をいとも簡単に解決することができた。ある学習者は自分で録音したテープを他人に送り、ある学習者は毎日公共の場所で人々に真相を伝え、そして真相の書かれてある手工業の製品を送るなどの実例がたくさんあるのに、なぜ私たちのところになるとこんな大問題になるのだろうか?
肝心なことは、果たして本当に修煉しながら法を実証しているのか、それともただ物事をやることだけに集中しているだけなのかである。法についてどこまで信じているのか、どの程度まで信じているのか、自分のためにどれほど保留しているのか、どの程度まで保留しているのか、自我を放下し、本当に法を実証する中に溶け込むことができたのか、それともただ自分を保護するために、困難を他人のところに押し付けたのか?もちろん条件が満たされていなければ、強引に強制することはできない。しかし私たちは果たして本当に法を実証するために全力を出し切っているのか?本当に大法を信じているのだろうか?
師父は『人心を放下し、世の人々を救い済度する』という経文の中で、「特に中国大陸の大法弟子は、一人一人皆表に出て真相を伝え、あらゆるところに真相が伝わるようにし、人のいるところに漏れることなく真相を伝えるべきです。真相をはっきりと伝えてから、煉功したい人がいれば、できるだけ早く法を勉強し功法を教える環境を整えてあげてください。彼らは次の段階で修煉する弟子です。真相を伝えると同時に、法の勉強を重視すべきです。法の勉強がよくできておらず、人心が重い学習者を利用して邪悪が流布した、法を乱す卑しい鬼の偽経文をこれ以上読んだり広めたりしないでください。正しい念と正しい行いを保ち、冷静に理性を持ち、全面的に世の人々を救い済度してください」と申された。
私は、これらの言葉を次のように理解している。大法弟子は今日の機縁を大事にすべきであり、大法の真相を大陸の隅々までに伝えることは、ただ盲目に真相資料を配るだけでなく、それは外部に出て、数千万もの家庭に入り込んで、待たず依頼せず、自ら自発的に、そして最も直接的に広範の中国人と接触し、理性を持って真相をはっきりと伝えるべきであり、それに私たちが現にこのように実行すれば、真相資料は更に多く、更に広範に伝わり、そして種類も増え、さらに融通が利くようになるであろうが、もう真相資料を配らないということを意味しているのではない。
それは直接接触し、観察し、面と向かって真相を伝えることで、いかなる方法でその閉ざされた心を開き、いかにして真相資料が、より正確に効率良く困惑を晴らし、いかにすれば、本当に救えるのかを、私たち自身もはっきりと分るようになる。ただ配るだけで、言葉を通して真相を伝えることがなければ、学びたい人が現れても、私たちを見つけ出すことができなくなるのではないか?
それらのもっぱら良くないものを広める人々は、これ以上自分の執着に動かされ、邪悪に利用されて、大法を妨害し、破壊しないでほしい。師父の慈悲を冒涜し、自分の命を台無しにしないようにしてほしい。
三、 明慧ネットが法を正す中でもたらす作用をはっきりと認識すること
明慧ネットは法を正す時期の大法弟子が、信頼に値するサイトとして、その機能及び意義も非常に深遠なものであり、それは本当に“法を以て師と為す”ための、広範にわたる学習者及び社会に向けられた修煉者が交流し、法を広める場所であり、また師父が私たちに按配した明るい灯火のように、大法弟子及び世の人々の道を明るく照らす純正なものである。師父も「明慧ネットには間違いがないというわけではありません。ただし重大の問題について、必ず明慧ネットの態度を見なければなりません。私は明慧ネットで写真及び“心が自ら明白となる”の経文を発表する目的とは、あなたたちに一つの信頼に値するサイトを樹立させるためです。」と申された。
法を実証することは常人に依頼することはできない。大法弟子及び世の人々が、大法を実証する理解及び行動は、フィードバックとして明慧ネットに届き、選別され、加工され、浄化され、そして純化されてから、再び大法弟子及び世の人々に戻ってきて、そしてこのように絶えず循環し、絶えず純正されることは、常人社会のものと比べられるものではなく、それに師父も絶えず見ている。そのため明慧ネットのものには、大法によって賦与された純正な力があり、大法弟子が大法を実証し、世の人々を救い済度する偉大な所為を幇助しているため、大法弟子が大法を実証し、擁護するとき、重要な問題については、明慧ネットの方向に常に付いて行かなくてはならないのである。実は四中全会の事件を、明慧ネットではまだ報道されておらず、ただ常に真相を伝えること及び修煉についての文章しか、掲載されていないのである。これこそ正しい方向ではないか?
個人の認識であり、不足な点は学習者による慈悲なる指摘を願う。
最後に、私に師父の『洪吟(二)』の中の漢詩を引用し、皆と共に勉強して行こう。
早く伝えよう
大法徒が真相を伝え、
口中から鋭い剣が一斉に放され
卑しい鬼の嘘を暴露し
済度をゆるがせにしないで早く伝えよう
二〇〇二年八月二十一日
(大陸大法弟子)
翻訳者による注1:四中全会とは中国共産党第十六回四中全会の略称である。
(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2005/3/3/96512.html)
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