日本明慧


新車に当て逃げされて思ったこと

文/イギリス 李安吉

 【明慧ネット2005年3月6日】一昨日の朝、夫が私をある同修の家に送った時、横から来た車にぶつけられた。私達がどうしたらよいか戸惑っているうちに、その車はさっと逃げて行ってしまった。  私達は警察へ事件を届け出に行った。道中、私と夫は改めてこのことを考えてみた。私たちが二週間前に買ったこの車で、道理から言えば私達は規則に違反して運転していなかったし、また法を実証しに行くので、こんなことは起こるべきではない。しかし、その時私の脳裏に繰り返し次の二つのことが浮かんで来た。「なぜあなたの車にぶつかったのか?」「修煉は厳粛なことである」ということであった。私はやっと真剣に自分を見つめることができた。修煉状態はずっと緩んでいた。多くのよくない欲望や執着心はずっと取り除いていない。私は夫に言った「ごめん、私の修煉の中で多くの漏れがあり、今回は私にぶつかりにきたの」。夫「いや、それだけではない、私にも執着があった。私はこの車に執着していた」。私「この二週間、あなたは家に帰るとその車のことばかり研究していたね。時間を無駄にしていた」。夫「そうだね。これはいいね、何の執着心もなくなり、あなたも人に家の車を見せびらかすことをしなくていいしね」。実は私たちはお互いに相手の執着をみていたが、重視していなかった。この車の後部ドアはぶつけられて大きく窪んでいた。私たちが執着していた美観以外は何も大きな支障はなかった。夫は重ねて言った、「師父がおられなければ、今日は予想もできない危険な目にあっていたかもしれないね」。  

 このようにぶつかって目が覚めた私たち。修煉は本当に厳粛で、正しく歩み、よく行わなければ、邪悪が私たちを迫害する理由とする。師父は私たちのために耐えられることが多く、私たちは本当にいつもこのようにし続けることができない。頭がはっきりした後、私はこの二日間の状態はいつもと違う感じがした。本当に二日間でこの変化を感じることができた。私は自分に言うと同時に、私のように精進しない弟子にも言いたい「一緒にこの最後の機縁を掴み、よく行いましょう。師父が私たちを待ってくださっています」。

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2005/3/6/96757.html