「私」について
文/大陸大法弟子
【明慧ネット2005年3月4日】「私(し)」はかつての宇宙生命の根本的属性であり、「無私」は、「正法正覚」、これこそ大法弟子が必ず達成しなければならない目標である。正法修煉の過程が進むにつれて、「私(し)」に対する認識も絶えず変化していく。
修煉をはじめた、「利己的」ということはただ個人の利益のために他人を傷つける行為の表れであると思い、「無私」ということはトラブルの中で、個人の利益を放棄する行為の表れであると思っていた。当時自分の人間の表面での表れは「利己的ではない」と感じていた。
師父は経文で、「実はあなた方の以前の本性は自分の為私の為の基礎の上に建てられたものである」とおっしゃった。私の認識は、まず利己的であるかないかは外面的な表れだけではなく、内心の真実の表れでもある。次に文字の上だけの理解では、もとはわれわれの生命が如何に高い次元にいたかどうかにかかわらず、本質的に「利己的」特性から抜け出すことが出来なかった。このことは当時理解することができず、更に深く体験することも出来なかった。
その後、師父は「李洪志先生の北米大湖区交流大会における説法」に、「多くの学習者が修煉と大法の仕事をする基点は「私(し)」であり、いつも『私(わたし)』はどうしなければならないと考えている。後になって何事をしてもいつも自分を大法弟子の一員とし、何事をしても大法弟子である自分がするべきことだと思っている」とおっしゃった。その時私は初めて「私(し)」に対して更に深く認識し、何事をしても個人の得と失のことを最初に考えるのではなく、これは大法弟子がするべきことだから私はするのだと考えるようになった。
その後、師父は説法の中で旧宇宙の根本的属性と生命の特性のことについて説かれたが、理解できなった生命の属性が初めて分かるようになった。自分に執着せず、無条件に正法に従って同化し円容することこそ、正法が未来の生命に対する要求であることが分かるようになった。しかも大法の慈悲が感じられ、また生命の無私に存在する素晴らしさを感じることができるようになった。
現在、実は法理は分かっているが、自分の基点を「私のため」にとする場合が多い。師父は三つの事をするよう弟子に要求されたが、それらを果たせるか、間違いなく行えるかは自分に対して責任を持つか否かの体現である。本当に自分に対して責任を持ち、弟子としてのするべき事をすれば、それは「私(し)」のためのことではないということは理解できた。しかし私はこのことを無視し、物事を行うときの多くの場合、先ず気がついたことは「自分」に対して責任を持ち、どうすれば「自分」がよく働けるか、どうすれば「自分」が法を正す過程に遅れず、どうすれば「自分」が三つの事をよく行えるか、何が「自分」にはよく行えていないのか、どうすれば「自分」がそれを補うことができるのかなど、「自分」がどうするのかが多すぎるので、これは「無私無我」ではなく、「私(し)」を更に覆い隠しているに過ぎないということであった。現在私は再び認識したのは、常に大法を基点とすることができるかどうか、師父の要求に如何に円容されるかが、本当に「利己的」なのか否かを量る唯一の肝心な点であるということである。もし何事も自分を脱することができず、何事をしてもいつも「自分」のことを先に考えるならば(トラブルに遭った時内に向かって捜すことを除く)、「自分」の基点は大法のためにと思っていても、それは更に「自己」を隠しているに過ぎないだろう。
(ここまで書いてきて、私は突然思い付いたのは「私(わたし)」のこの文章を発表するべきではないか?実はこれも正しくない心であろう。まず、交流するために書いた個人の修煉体験であるが、しかし法を正す強大な流れの中での文章は、先ず弟子の交流地域の分子になるべきであり、「私のもの」になるべきではない。次に、文章を書いて交流に参与するのはこのことを支持することで、発表しなければ書かないという目的ではない。)
以上は個人の認識で、基点を正すことこそ、本当に自分に対して責任を持つことができ、師父が要求された三つの事を正しく行うことができ、そこでやっと本当に来たときの大きな願いが実現されることになるだろう。
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/3/4/96590.html)
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