日本明慧


生活の至るところで正しい念正しい行いであるべき

 文/北京大法弟子 

 【明慧ネット2005年3月9日】明慧ネットの“「正念を持って正しい行いで大法を実証する」原稿募集のお知らせ”を読み、最初は、規模が雄大で勢いも凄まじい行いでなければ、正しい念正しい行いとは言えず、学習者と交流する素材と基礎になることも出来ず、自分が普段行ったことは普通であり、平凡で言及する価値がない、といった誤った観念を抱いていました。

 今朝、師父の2003年4月20日《ニューヨーク地区法会での説法》を学び、「全ての大法弟子が形式を重く見ないで、自分の修煉、自分の向上、邪悪の中で法を証明し、衆生を救い済度すること、堅い決意で歩むべき道をしっかり歩むことこそ、最も重要なのです。」という一文を読み、自分が形式を重く見過ぎており、この考え自体が、正しい念ではないことを認識しました。ここ数年の法を正す道を振り返り、いくつかの心得と感銘が自ずと湧いてきました。それについて記述し、皆さんと共に分かち合いたいと思います。

 法を勉強するのは、正念を保つ唯一の方法である

 師父は、毎回発表される経文の中で、学習者が法を学ぶことを重んじるよう強調されました。現在は、法を学ぶことは、正しい念正しい行いに対し、いかに重要であるかを認識することが出来ました。毎日、常人の環境に影響され、見聞も大法修煉者としてはならないことばかりで、色々な妨害が激しいものがあります。一日の仕事を終えても、なかなか落ち着くことが出来ず、昼間起きたことが脳裏に浮かんできては、問題に対応する方法もとても常人的になりました。師父の講法を真剣に学んだ後、ようやく落ち着き、大法修煉者として問題に対処し、是非を判断できるようになりました。

 法を学ぶことは、既に生活の中の欠かせない一部となりました。日常の仕事、家事を終えてから、時間を無駄にせず法を聞くか本を読むことにしました。法を学ぶことは、もう形だけのことではありませんでした。主意識は法を学ぶことにおかなければ、各種の常人の意識が妨害に来てしまいます。私たちの頭は一刻も暇な時がなく、時間を大事にして、出来る限り多く法に同化させるべきだと思います。法をいっぱいに詰め、法の内容が頻繁に頭を出入りしてはじめて、自分の言行が正しく法に合うことが出来るのだと思います。それに反し、もし法を学ぶことを疎かにすると、常人の各種な観念が絶えず邪魔をしに来ます。常人の観念を頻繁に頭に出入りさせると、私たちの行為は全く常人と変わらないものになることでしょう。

 全ての正しい行いは正しい念を元に、全ての正しい念は法を元になるものです。着実に法を学んでいないと、法から離れる行為になりがちです。

 大法を実証する全ての機会を逃さない

 私たちの救い済度を必要とする人は、私たちの生活で出会った全ての人であり、これを認識した後、周りに現れた人に積極的に接触し、機会を探しては真相を理解してもらいました。レストランでは、給仕の名札には氏名が書いてあり、郵便局の職員が発行した領収書には、氏名の印鑑が押しており、両親のところには同僚の名刺があり、同僚の机にそれぞれの顧客の名刺が置いており、学校のホームページには教員の氏名が載っており…ちょっと気を配れば、毎日、多くの救い済度を待っている人の情報を入手することができます。今行っている全ての事は、有意義なことであり、出来るだけ法を正すことに繋がるよう自分に要求しました。

 師父はどこかに問題があったならば、真相を伝えに行くべきであると教えてくれました。この原則を日常の仕事にも運用しました。いつも通り真相を伝えるほか、仕事の中である項目が難航した際には、真相の説明が不十分だと思い、もう一回、当該項目の全ての関連する人に真相の資料を配り、既に真相を聞いていた人には、新たな資料を配り、再び真相を説明しました。法を実証することをちゃんと行なっていくと、当該項目が自然と推進され、円満に完了していきました。ただし、真相を伝えることを以って、仕事を推進させるというような考え方を持たないことだと思います。仕事の結果は重要なものではなく、この過程でいかにこの機会を利用し、多くの人と知り合いになり、真相を伝えることが大切なことでしょう。

 面白いことに、ここ数年の仕事の項目は以前とは異なり、どれも長く持続することがありませんでした。一団の顧客と知り合い真相を伝えると、繋がりが切れ、救い済度を待っている新しい顧客と出会う、といった状態でした。“師父の講法でのお話は全てが正しく、師父が全てをコントロールしてくださっており、師父の法を正す歩みについて行くならば、私たちの使命を果たすことができる”と深く体得しました。

 生活の至るところで正しい念正しい行いであるべき

 一時期、私は世界の大法弟子統一の正念を発する時間、天安門を通過する時間だけに正念を発していました。法を深く学ぶにつれ、正念の含む内容は、私たちが邪悪を取り除く時、黙祷されている師父が賦与された口決だけではなく、師父の私たち大法修煉者に対する要求も含まれており、ただ、これらの正念は、私たちの世間での生活の全ての細かいところを貫くべきであると認識しました。例えば:師父は私たちが“無私無我、正覚”(《転法輪》)に修成するよう要求された。“無私無我、かつ他人を先に自分は後にする”ことは、私たちが常に保持する正念の一つでしょう。師父は法の中で、私たちが世間にいる時有する全ての正念を教え、毎日たゆまず法を勉強し続ける目的の一つは、師父の要求、正念の内容をしっかりと心に刻むことでしょう。正念が思想を主導するようになったら、私たちの言行は法の影響の下にあり、ますます法の要求に符合しつつ、ますます法を正す時期の弟子の標準に達しつつあると言えましょう。

 具体的に、日常生活の中、行動を取る前に、まず「この動機は何であるか、この言行は“真・善・忍”に符合するのか」と自分に問いかけます。このようにすることにより、自分の執着心を見つけやすくなります。自分の執着が目の前に現れ、「(執着を)捨てるかどうか?」この時、師父、師父の要求を思い出し、断固として“捨てた”ならば、柳暗花明また一村となることでしょう!
 
 一例を挙げますと:修煉をしていることにより、周囲の人からは実際の年齢より若く見られ、きれいだと言われます。そのため、徐々に自分の顔を気にするようになりました。一時期、顔にくまができました。それを見て、まず睡眠をたっぷりととることにしました。しかし、睡眠を取ってもくまは完全に消えませんでした。主人は仕事の関係で、毎日帰りが遅く、いつも午前0時過ぎにならないと寝ることが出来ません。遅く寝ても、翌日の朝は、早く起きて子供を学校に送っていかなければなりません。睡眠不足で、又くまができてしまうと思うと、夫が帰るまで待ち、話し合ったりすることをやめ、先に寝てしまいました。

 時間が経つと、夫婦の間の交流が少なくなり、夫に真相を伝えても良い効果は、ありませんでした。事の重大さに気づき、顔に対する執着は、既に私の修煉精進の歩みを妨害していました。これは捨てなければなりません…しかし、色々な心配が出てきてしまい、捨てるか捨てないかと迷いました。断固と捨てることを決心すると、くまが消え、夫に真相を説明した際も、理解を示してくれました。

 小さいことですが、一念の違いによって異なる結果がもたらされる、ということを体験できました。(執着心を)捨てられたならば神で、捨てないなら人間とも言えましょう。人間が執着しているものは、どんなにか短命で、移ろい易いものなのでしょうか。捨てることができるのは、強大な正念によるものであり、法を学ぶことは、唯一の正念を保つ保障と言えましょう。

 生活の中の一思一念によって、人間なのか神なのか区別することができると思います。一つ一つの考えや行動によって、大法弟子の正しい行いなのか、常人の行為なのかを区別することができます。どのような考えを持っているのか、どのように行うのか、いつも大法修煉者の基準を以って律するならば、全てが良く行なわれなくても、絶えず精進しつつあることに違いないと思います。

 以上あくまでも個人の体得したものであり、学習者の皆さんと共に分かち合いたいと思います。

 合十

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/3/9/96946.html