日本明慧


私は何を失ったのでしょうか

 【明慧ネット2005年4月3日】数年前に、ロシアのある無神論者が、某大会で人々に神は絶対に存在しないことを論じた。聴衆たちが彼の言い分も筋が通っていると感じたと思った時、彼は声高に「神様よ、もしあなたが本当におられるのなら、どうか降臨なさってください。この群衆の前で私を殺してください。そうなれば私たちはあなたの存在を信じます!」と叫んだ。静かに数分を待ち、神が下りてこないのを見て、彼は左右を見ながら「ほら見てください、神様なんて存在しないさ」と言い出した。

 しかしそのときある婦人が立ち上がって、彼に話し始めた。「先生、あなたの理論は非常に卓越していると思います。あなたが博学の士であるのに対して、私はただの農村の女性です、あなたに反論することはできません。しかしあなたに自分のある質問に答えてほしいのです。それは、私はイエスを信じ、心の中で主による救済を感じることで、非常にうれしいのです。私は『聖書』を読むのもすきで、読んでいくうちに、自分の心の中にイエスによる慰めが満たされていくのを感じます。主・イエスを信じることで、人生は非常に楽しいものになりました。そこであなたに聞きたいのですが、もし私が死んだら、神様は存在しないこと、そしてイエスは神様の息子でもないし、聖書もでたらめでしかなかったと思い知らされたとしても、私は生涯イエスを信じることで、何かを失ったのでしょうか?」と言い出した。

 会場はしんと静まりかえって、無神論者も無言になった。人々は婦人の推理にも同調し、学者もこのごく単純なロジックに圧倒されて、「婦人よ、あなたは何も失っていないと思います」と小声で答えた。

 婦人は学者に対して続けて話した。「先生のすばらしい答えに感謝します。私にはもう一つの質問があります。それは、あなたが死んだとき、もしあなたは神様が本当に存在すること、聖書も正しいこと、そしてイエスも本当に神様の息子であるし、天国も地獄も存在することを知らされたら、あなたは自分が何を失ったと思いますか?」学者は長い時間考えたが、なにも答えられなかった。

【評論】:本来正常な社会では、神を信じるか否かは個人の自由であり、論争も世界観の範疇に限られるものであった。しかし今日の中国では、不幸にも“無神論”は某政党の独裁権力に利用され、世界観の差異に過ぎない思想を、信仰に対する弾圧の口実とした。当該政党が国を挙げて信仰者たちを迫害するそのさまに、全世界は震撼とした。

 もう一つの角度で考えてみよう。中国の某政党が無神論を通して思想を支配しようとすることで、中国の国民になにをもたらしたのか?科学技術の進歩か?いや、科学に聖域はない。しかし中共の科学には聖域がある。その(客観的な真理でない)政治の認識する範囲を超えるとタブーにされる。これこそ科学の発展を阻んでいるのではないか?“有神論”が普及している西洋の科学技術は、中国よりずっと進んでいるではないか?

 では無神論は道徳の昇華をもたらしたのか?いや、その正反対である。神に対する信仰を失った中国社会の道徳水準は、実に恐ろしいまでに下落した。ここ数年続発する有毒食物販売事件は、すでに人間の行為と呼べなくなった。無神論は人民に裕福な生活をもたらしたのか?いいや、そうでもない。誠実をなくした社会は、精神の拠りどころがなくなった。世俗を超越する信仰の力がなければ、人生には永続する充実感及び幸福はやってこない。

 マルクス主義者には二大予言がある。一つは資本主義の滅亡で、もう一つは有神論の消失である。しかし、資本主義は消えていない、その反対に、世界中のマルクス共産主義は終焉を迎えようとしている。同様に、宗教も消えていないどころか、たくさんの信者は科学技術の最も発達している国に集まっている。これらのすべては、“無神論”者たちにとって、考慮すべき問題ではないのか?
(『明慧週刊』より)

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/4/3/98829.html