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妻は迫害により死亡、黄国華さんはタイに逃亡して緊急の救援を呼びかける(一)

 文/黄国華さん

 【明慧网2004年10月1日】法輪功学習者の黄国華さんは山東省維坊市臨駒県五井鎮茹家庄の村人で、1988年から法輪功を修煉し始めました。彼の妻の羅績湘さんと両親も法輪功を修練していました。江××集団が法輪功の迫害をはじめてから、黄国華さん一家は残酷な迫害を受けました。妻の羅績湘さんは妊娠3ヶ月と少しでしたが迫害により亡くなり、黄国華さんも何回も不法に警察に捕まえられ拘禁されました。2000年10月29日と2002年11月20日の二回にわたって、広州市白雲区の610オフィス(法輪功取締本部)と海珠区公安局によって広州市第一労教所二大隊に送られて迫害されました。その間、凶悪な警察と労教所の犯罪者に思う存分殴打され、むりやり灌食され、“死人床”に寝かされるなど、残虐悲道な精神の迫害を受けました。広州市天河区と興華街の610オフィスで行われている迫害がメディアに暴露されたため、610オフィスは黄国華さんの行方を追いました。

黄国華さんの妻、羅績湘さん(すでに迫害により死亡)   娘、黄穎ちゃん

 黄国華さんは広州市610オフィスに追われる中、3歳の娘の世話ができなくなったため、タイに向かって一人での逃亡を余儀なくされました。現在の立場は緊急で、切実に“国連難民事務所”あるいはその他の政府機関の助けを必要としています。以下は、彼が法輪功を修煉したという理由で中国大陸で受けた迫害について述べた内容です。

 黄国華さんは法輪功を修煉したという理由で中国大陸で受けた迫害について述べた

 私は黄国華といいます。32歳で、山東省維坊市臨駒県五井鎮茹家庄の村人です。広州市中山大学で勉強していました。私は1998年8月から法輪功を修煉し始め、妻の羅績湘、父の黄佃青、母の賀光栄も法輪功の修煉を続けました。1999年7月20日に江××政治ごろつき集団が法輪功の迫害をはじめてから今までの5年間、私と私の家族は多くの残虐な迫害を受けました。妊娠3ヶ月だった妻の羅績湘とまだおなかの中にいた子供は彼らに残虐に殺されました。私は何度も警察に捕まえられ、二回不法に労教させられ、最近では不法な警察が私を探し回っています。

 1999年7月20日早朝5時、広州市天河区沙河燕嶺路の広東省農業開墾の建設実業会社総本部の敷地内で煉功をしていたときに、天河区華街派出所の警察に捕まえられて派出所まで連れて行かれました。そこで不法な尋問と恐喝を受けた後、その日の昼11時30分前後に釈放されました。同じ年の10月29日に妻羅績湘と北京に陳情に行きました。しかし天安門の検査所で、ただ《転法輪》を一冊持っていただけの理由で不法に天安門公安支局に連れて行かれました。私と妻は身分を登録された後、私は山東省維坊市の駐北京事務所に連れて行かれ、妻は天安門公安支局の鉄格子に閉じ込められ、のちに不法に広州市天河区の留置場で15日間拘留されました。

 私は不法に山東省維坊市の駐北京事務所“維坊の家”の104番の部屋に閉じ込められました。次の日の早朝5時、維坊市政府の副事務総長(名前は不明、男性で40歳前後)が来て、私は手錠をはめられて車に押し込まれ、山東省のもと住んでいたところに連れ戻されました。食事を許されない状況で午後2時に維坊市に着きました。私は臨駒県公安局の警察に不法に一ヶ月近く“刑事拘留”させられ、留置所で強制労働をさせられました。古い車のタイヤのゴムを素手で剥ぎ取る仕事で、終わらないと食事を与えてくれませんでした。後で私の親が3000元出してやっと釈放してもらえました。

 2000年10月29日の夜、私が広州市南方病院の外来診察のビルの1階で、法輪功がどのようにして“江××の政治ごろつき集団”に誹謗されて残酷に迫害されているのかの真相のビラを配っていたところ、病院の保衛科の人に不法に捉えられて、そして気違いのように顔を10数分間殴られました。私の顔は腫れて、黒くなりました。夜に再び広州市白雲区同和派出所の鉄格子に閉じ込められ、両腕は手錠で鉄格子につるされ、10月30日の午前9時過ぎやっと下ろされました。

 30日の夜12時過ぎ、私は再び白雲区留置所、A102番の部屋に閉じ込められました。私を監視していた警察は名字が楊といい、男性で当時は32歳前後でした。私はそこでずっと135日間不法に拘禁され、2001年3月15日に広州市第一労教所二大隊に送られて2年間労教させられました。

 私が広州市第一労教所で受けた精神的迫害は肉体的迫害よりもはるかにひどいものでした。毎日強制的に法輪功および師父を侮辱した本やビデオを見たり書いたりさせられました。法輪功と師父は正しくてよいものだとはっきり分かっているのに、無理やり「悪い、邪悪なものだ」と言わされ、良心の呵責で、死んだほうがましな日々を送りました。侮辱する事柄を書かないと無期限に閉じ込められました。強制労働もさせられ、バイクのラッパを作らされました。大量のねずみの糞尿が混じった腐って熟していない米を食べさせられました。このとき私の妻はすでに妊娠10ヶ月を過ぎていて、麻薬犯たちにあれこれと虐待を受けていました。労教所二大隊の工作員責任者の李国明が、勝手に法輪功の人をののしったり殴ったりしろと麻薬犯たちに命令したのです。

 私は14ヶ月間不法に拘禁された後、2001年12月30日に予定より早く釈放されました。法輪功の人は身内が迎えに来ないと釈放されず、妻の兄の羅輯さんが私を迎えに来ることになっていたのですが、道の途中で交通事故を起こし、サンタナの乗用車は壊れ、羅輯さんも入院したからです!

 2002年5月、私はやっとのことで流浪の妻を見つけました。このとき妻はすでに、2001年5月18日に生まれた、粗末な衛生所にいる娘と離れ離れになって一年近くたっていました。2001年8月末、娘はたった3ヶ月ちょっとでしたが、“江氏集団”の追っ手から逃れるために、妻は我慢して幼い娘を私の母賀光栄の山東の実家に預けるしかありませんでした。このとき私の父、黄佃青はすでに臨駒県610オフィスに不法に捕まえられ、洗脳班で迫害を受けていました。

 2002年11月20日、妻と再び一緒になってまだ半年でした。広州市海珠区上沖村の5巷5号201部屋で昼寝をしていると(昼の12時30分前後)、村の治安員が家に入ってきて不法に家の中を捜索しました。法輪功の書類が見つかったのを理由に、海珠区南洲街派出所所長の李志忠ともう一人の警察が私と妻を海珠区南洲街派出所まで連れて行き不法に取調べを行いました。このとき妻はすでに妊娠3ヶ月でした。

 私たちは非法な拘禁に抗議するために絶食をはじめました。2002年11月22日の午前1時前後、私たちは不法に海珠区留置所に入れられました。私はA1─20号屋に、妻はB2─8号屋に入れられ、11月24日から不法な人たちによる強制灌食が始まりました。中国海軍177病院一階の緊急室で午前は妻を、午後は私を灌食しました。“唐穎”という名の看護師はゴム管を私の鼻の穴から胃に差し込みました。犯罪者2人と警察3人が私の手足と頭を押さえていたのですが、非常に苦痛だったため、5人でも押さえるのが困難でした。灌食後、抜き出された管は鮮血でいっぱいでした。二日おきに灌食され、私は合計3回されました。それに加えて私はA─17号室(死刑室)の“死人床”に大の字に寝かされました。15時間寝かされたあと、片足だけを7日間も固定され、大小便も自由にできませんでした。

 海珠区法制課副課長は私に「妻を検査したところ妊娠していたのでもう留置所には閉じ込めておけない。私の指紋さえとれば妻を釈放して彼女の兄の羅輯さんに預ける」と言いました。妻を救うために、私は指紋をとりました。しかし彼らは私をだまして妻を“天河区610オフィスに送り、さらに恨らむべきことには妻は11月28日に強制的に黄埔の洗脳班に送られてしまいました。

 絶食によってからだがあまりにも弱っていたため、妻は11月29日の午前に天河の病院に運ばれて点滴を始めました。3階で、部屋の番号は分かっていません。病棟は二つに分かれていて、外側にはベッドが2個ありました。ひとつには妻が寝ていて、もうひとつには監視の人がいました。内側には監視機器があり、保安員二人と女の監視員一人(610オフィス系統の人)がいました。妻は危篤状態だったにもかかわらず、少なくとも3人に監視されている中、12月1日に3階のトイレの窓から飛び降りて、4日に亡くなりました(詳しくは下記の付録をご覧下さい)。このとき、私はまだ妻は安全に家に帰ったと思っていたのです!

つづく


(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/10/1/85494.html

(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2004/10/4/53125.html