日本明慧


正念を取り戻す

 文/江西大法弟子

 【明慧ネット2005年5月20日】私は、かなり長い間落ち込みが続き、法の勉強、煉功、真相説明、発正念などが邪魔されたりしました。私は絶えず内に向かって原因を探し、「主意識を強化すべき」という一段を暗記までしました。少し好転の気配が現れて、後には依然としてぼんやりとした状態に落ち込みました。

 ここ二日間、私は自分にある幾つかの魔性に気ままにさせられ、心の苦痛と必死の頑張りの中で、絶えず内に向かって何を探すべきなのか、まだどこが足りないのかを自分自身に問い掛けました。

 その中で、心の奥に非常に汚くて恐ろしい悪魔が隠れていることにやっと気づきました。それは、つまり、いつも神聖な大法と駆け引きをし、偉大な先生と駆け引きをしていたということでした。一万年に一度めぐりあえるかどうかの大法の素晴らしさを心の中では分かっているつもりでしたが、完全に大法の中に溶け込んで一心不乱に先生の教えを受け入れ、先生のご説明通りの法理に従って着実に心を修めませんでした。心の中では、いつも先生に「私は三つのことをちゃんとやり遂げました。だから、私はきっと淘汰されないでしょう。私は真修弟子と呼ばれますか?私は返本帰真できるのでしょうか?」などなど、恥ずかしげもなく聞きました。実は、様々な汚い執着心を覆い隠し、一つもう一つの問題の対応に疲れていただけでした。恐れる心を持ったままでは、いくら三つのことをやったとしても妨害が入るはずです。相互作用という古い宇宙の理から抜け出すことができないため、発する正念も強くありませんでした。

 心の奥に長い間隠れ込んでいたこれらの執着心を見つけ出し、私は突然目の前にあった高い壁が一瞬として消えたような気がしました。私の主意識と正念は、遂に戻って来ました。それは、つまり、私は「真善忍」の中で修練し、最も偉大な法の中で修煉しはじめて、偉大な先生から保護され、導かれるということです。これで充分すぎます!これこそが一番よい環境であり、これこそが私が得られた報いの最高の証です。これ以外に、求めるものなんか何一つありません。大法の中で修練することができることは、どんなに幸福で光栄なことなのでしょうか!大法弟子になったということはどれだけの素晴らしいことなのでしょうか。私のために先生に恥をかかせ、大法に恥をかかせるなんて絶対に許しません!

 正念が私の心に戻って来た時は、私の主意識がはっきりしている時です。いまになって私は、私たちが先生に対し不敬の気持ちでいる時、古い勢力が最大の口実を造って迫害を加える時です。事実上、私たちが先生に対し不敬である時は、私たちの主意識がはっきりしておらず、大法の中身が見えず、法理の理解はなおさらぼんやりしている時です。強い正念こそ、法理(先生のすべての教え)に対する一心不乱の確信です。

 至る所で強い正念を持ち続けるということこそ、一つもうひとつの試練と関門を乗り越えられる保証であり、同時に、知恵や理知を持って試練と難を、衆生を救い済度する機縁に結びつけることができるのです。

 個人的な悟りですが、適切ではないところがあれば、慈悲のご指摘お願いします。

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2005/5/20/102225.html