日本明慧


求める心をなくすと品格は自然と高まる

 
 文/洪丹丹

 【明慧ネット2005年6月6日】人間の固定観念を変えるのは容易なことではない。歳月と経験の累積はますます自分の固守している観念が正しいかどうかを判断できなくする。しかしある日、自分の心の中に積もった塵を払う日が来たとき、もしかすると生活の中の別の光景を発見することができるかも知れない!

 張必光さんは1971年マレーシアからオーストラリアに移住し、すでに30年以上経つ。オーストラリアに来て最初の6年間は、ブリスベンで1年間大学の予備課に通い、その後は南部のアデレードで4年間電子工学を専門に学んだ。卒業後はまたコンピュータの課程を1年間学び、その期間中彼は勉学に励むと共に、あるレストランでアルバイトしながら学費を稼ぎ、順調に学業を終えた。

 1977 年頃、南オーストラリアでは中華料理が流行り始めた。当時中国料理店はまだ少なく、張必光さんは時期を見計らって、友人と共同で1軒目のレストランを開業した。彼の努力によってレストランは日増しに繁盛し、二年間のうちまた3件のレストランを出店した。その後張さんは1件目のレストランの全ての株式を買い取った。それ以来、彼はこのレストランと切っても切れない縁を結び、現在に至っている。この経過を思い出すと、張必光さんはすこぶる感慨を覚える。この27年の経営の道は決して順調ではなかった。結婚後、張さん夫婦はレストランの経営に心血を注いだ。ひとり娘が生まれてたが、彼女は両親に連れられ、1日中レストランの中で過ごしていた。

 花粉症に感染 健康に赤信号

 昼夜を問わずがんばってきた張さんは働きすぎで疲れ切っていた。仕事と生活が思うとおりにいかないときは、自分自身に生命の本当の意義は何なんだろうと何度も問いかけることもあった。いくらお金を稼いだところで、永遠の快楽を買えるのか。どうして快楽なるものは長続きせず、瞬く間に過ぎてしまうのだろう。このような自分自身の問題と人生の根本的な答えを求めて、張必光さんはかつて教会に通い、キリストを信仰する友人と共に探求したこともあり、古今東西の哲学を試したこともあり、宗教経書の中からヒントを探したこともあった。しかし、歴史、哲学、宗教知識のいずれも彼の生命の根本的な問題に対して答えを出してはくれなかった。

 生命の低迷期、健康にも赤信号が現れた。長期にわたるレストランでの勤務により、いつも心身の疲れを感じていた。1973年花粉症にかかってから、症状はますます深刻になり、特に春には公園に行くことも出来なかった。少しでも油断すると、敏感な症状はすぐ反応を見せ、目がすぐひどく腫れあがる。飲んだ薬も少なくないが、同時に現れたのは薬による副作用で、本当に苦しい限りだった。

 生命の新しい起点と返本帰真の道

 2000 年2月のある日、張さんのシンガポールの友人が「転法輪」という修練に関する本を送ってくれた。この本は彼の生命の本性と知恵を開き、彼の心を震撼させ、まさに目からうろこが落ちたようだった。いくら考えてもわからなかった生命の存在意義が、本の中から解答を得ることが出来たのである。本に書かれている法理は以前から自分が守ってきた処世の原則および人生に対する考え方とあまりにも一致していて、まさに彼の生命の本質の中の最も善良な本性の表れであるかのようだった。それから張さんは人生の新しいスタートを切った。法輪大法を修練し返本帰真への道を歩みだしたのである。

 張さんに法輪大法の修練後現れた変化について尋ねると、張さんは「変化は驚きに値します」と感無量で言う。以前は働いてもいつも疲れを感じていたのが、今は同じ時間働いても、もう心身の疲れを感じないと言う。以前ひどかった脱毛症が、修練をはじめて3ヶ月後なんと治りはじめ奇跡的にも髪の毛が生え始め、黒くなって来た。毎年ひどくなっていた花粉症は修練6ヶ月後よくなった。以前花粉症の後の傷や仕事中のやけどによる傷跡も徐々に消えていっている。これらは体の表面の目に見える変化であるが、精神的には根本的な変化が現れたのである。

 人間社会の損得を前にして、平然といられる

 張さんは修練を始めて絶えず法輪大法の法理である「真善忍」に照らして厳しく自分を律し、これは彼の行動の原則となった。善に向かおうとするのは人の天性である、と彼は言う。あなたの心がもっとも純粋で善良な、生まれ持った本性への回帰を遂げたとき、あなたの周囲のすべてと外部は調和がとれ共存できる。それによって対立や衝突に出会った時は、闘争心と貪欲を自然と放棄することが出来、世間での利益の損得に直面しても平然といられるようになり、更に真心と善良と寛容を持って違う角度から生活を見ることが出来る、と彼は言う。

 張さんははっきり言っている。「法輪大法の修練を始めてから、精神的に楽になり、毎日同じ仕事をしていても、同時に色々なトラブルも生じるが、それに対する対処方法と態度は全く変わりました。細かいことを詮索しなくなり、不公平に出会ってももう不平をこぼさなくなり、笑顔で以前の怒りを代え、生きることのすばらしさを本当の意味で心得ることができました。生命はこんなにも無私で、尊厳と正気をもっていきていられるものだとつくづく感じました!特に物質的利益を目の前にしたとき、張さんはこのように言った。「お客様が喜んでいる姿が私には最もよい贈り物であり、決してお金を儲けるためではない」。

 彼は他の人が自分の奉仕によって受益することによって満足感と喜びを感じている!求める心をなくして得られた喜びは、修練の角度から言うと、これはまさに修練者の次元の現れであろう。これがまさに修練者と常人の物事に対する根本的な違いではないだろうか。


(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/6/18/104335.html