日本明慧


師父を尊敬することについて

 【明慧ネット2005年6月16日】師父曰く。「師父として、内心から言えば、皆さんが私を尊敬していようがいまいが、私は全く気にしていません。当時、私は皆さんを済度した時、多くの人は私を罵っており、講習会に出たとき私を罵りながら講習を聞いていました。私は気にしません。私はどうしても成就するまであなたを済度するのです(拍手)。つまり、師父に対してどう思っているかは師父が心の中で全く気にしておらず、私は如何なる宇宙次元の要素にも動かされることはありません。しかし、問題があります。つまりもし皆さんが師父を尊敬していなければ、宇宙の理から言えばそれは間違いです。旧勢力はそれによって隙に乗じて皆さんを壊滅してしまいます。それらは皆さんを壊滅する最大の口実を掴みました。なぜならば、それらに私が皆さんを済度する全過程が見えたからです。」《2003年旧正月十五日米国西部法会での説法》

 昔この法を見るたび、言われているのは自分ではないし、師父に不敬のことなんかしていないと思い込みました。最近明慧ネットで同修の文章を読むと、不届きだと感じ、内心に探っていくと、実は師父に対して幾度も不敬をしたのに、気が付くことができなかったです。例えば、圧力がかけられたとき、“三書”を書いたことで、すでに師父と大法に罪を犯してしまいました。

 経文を読むときには、集中できず心が乱れます。《転法輪》の一つ一つの文字はすべて師父の法身であり、師父が全部の力をこの法に注いだことを知りながらも、自分をもっと厳しくして、この法に対する最大な尊敬を表すことができませんでした。

 錬功するときには、頭が休めません。師父が私たちのために号令を掛けてくれたことは、いかに幸せなのかと大事にすることをしなくて、不敬を犯しました。

 法を勉強したのに、実行できないし、それから法に従って自分を律せません。更に後天的観念に引きずられ執着に追行するにつれ、師父と大法について常人の考え方でもって思いました。

 師父に線香を供えるときには、純粋な心を持てず他人の過ちをまねしたほか、強い執着に基づいて、非常にやってはいけないことをしました。

 “7.20”の前に、《転法輪》を手書きしたことがあります。時間とともに、このことも記憶に消えました。つい最近、手書きした経文に出会いました。

 以上のいろいろなことを踏まえて、師父に誓いを立てたのに、それは師父を騙しているのと同然ではないのか?と……
本当に自分の内を探ったら、驚くほど目覚めました。師父に大変不敬なことをしてしまいました。師父が、わたしたちのために言葉で尽くせないほどの苦労をかけ、想像もつかない圧力を受けてくれましたが、わたしたちはこのような軽い気持ちで返しました。いったん師父に対して不敬になったら、旧勢力はこの人があまりにも悪いと思い、凶悪な手を下すのです。そして、学習者の文章にも述べたように、「一部の学習者は、自分の犯したことを知らず師父に不敬なことをしたと認めません。真に師父を尊敬し法を尊敬するというのは、口で言っているだけのことではないし、個人の感覚で持って走ることでもありません……」

 師父を尊敬し法を尊敬することに対して、修練者の皆さんは、もっと厳粛に対応しなければなりません。神々はこのわたしたちの行動を見ているのです。師父を尊敬し法を尊敬してこそ、修練の実践においては、師父に対する信仰を固められて法を固く守られます。そして、三つの事をも貫けるはずです。こうしてはじめて、師父との万古から結んだ聖なる縁と師父の慈悲なる救い済度に背くことがないのです。




(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/6/16/104113.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2005/6/27/62304.html