日本明慧


自我を修正し、法の中に溶け込む(二)

(2005年シカゴ法会にて)

 文/シカゴの大法弟子

 【明慧ネット2005年6月28日】

 3. 賞讚と批判において自分を修正する

 他州に住む同修から電話がありました。会話の最後に彼女は言いました、「あなたの修煉状態は最近良いのですか? 昨夜私はあなたが師父と一緒に居る夢を見ました。あなたの周囲の美しさは、言葉に表わせない程でした!」 私は特別な感覚を持たなかったと言いましたが、心中僅かな歓喜心があるのを認めました。予想しなかったことには、数日後同地区の同修が言いました、「私は昨夜夢を見ました。あなたの家の周囲は不潔で汚れていました! あなたの近所はいつもとても良い処でしたから、私は理解できませんでした。何故かしら? 目が醒めた時、私はあなたの修煉状態があまり良くないのかもしれないと思いました。あなたはよく外に向けて見ていましたから」。それを聞いて私は非常に憂鬱になりました。何も言えず黙っているだけでした。その時私は二つの夢を結び付けることはしませんでした。

 数ヵ月後、ある同修を通じて、メディア関係の責任者である同修が私の文章を書く能力に感心し、メディアの仕事にもっと責任を持つよう推薦してきました。私は又歓喜心を感じました。それから私は明慧ネットに記事を投稿し、反応を待ちました。しかしながら、編集者は、文章の書き方についての多くのリンクを送って寄越し、あたりさわりのないように、投稿する前にもっと基本的技術を学んだ方が良いと、指摘してきました。

 それは私をとても傷付けました。何故だろう? と私は何度も自分に聞いてみました。私は文学専攻で、多くの唐詩や宋詩を暗記しています。私は多くの大法関係の記事を書き、それらは同修達からも認められています。人々はいつも私の文章を誉めました。私は歓喜心があるとは思いませんでした。何故編集者はそのようなコメントをしたのだろう? 私は憤慨し、憂鬱で、大法の仕事をやる気が起きませんでした。何故なら私の仕事は皆文章を書くことと関係していたからです。私はコンピューターと携帯電話を切り、夫にも言わず自分を孤立させました。何も手につきませんでした。私の思いは乱れ、情緒は極点まで沈み、無駄に修煉したと感じました。

 その日私はとてもぼんやりしていました。何をしたのか、どう過ごしたのかよく分かりません。翌日私が自分の責任を逃れようと目論んでいた時、大法弟子であるベビーシッターが言いました、「元気がないようですね。煉功して問題を忘れなさい」。私は同意しました。

 私は1997年に法を得ましたが、他の同修達のように何か特別なものを感じたり見たりしませんでした。しかしその日站椿をしている時、初めて身体の中で法輪が回転しているのを、はっきりと感じました。法輪の回転は速くありませんでした。二本の腕の間に暖かいものを一つ感じ、指の間に小さいものが回転しており、一本一本の指に沿って滑るように動いていました。その感覚はすばらしいものでした! 私は師父の無量の慈悲と励ましを真に感じ、涙が溢れてきました。師父はこの落込んでしまって、立ち上がって自分の責任を取ろうとしない弟子を、励ましました。師父は、この執着があまりにも強すぎて途方に暮れ、自分がやるべき事、歴史が授けた重大な責任、をやる為に立ち上がることをしない弟子を励ましました。

 涙を浮かべたまま、私は煉功を完了しました。冷静になり、気持が落ち着きました。私は二つの夢のことを思い、私の文章に対する二つの批評と、人々が私を誉めた時に感じた歓喜心のことを思いました。私はこういうものに執着しないよう常に自分に言い聞かせてきたのですが、本当にそうしていたのでしょうか? 私は自分の修煉の初期に、これらの執着を放下してしまったと思っていました。更に迫害が始まってからは、歓喜心をもたらすようなものは何もないと信じていました。しかし自分で執着がないと思うからといって、無いとは限りませんでした。結局私は常人の中で修煉しているのですから。師父は言いました、

 "人類社会は修煉にとって絶好の場所であり、人類社会にある全てのものは人間に執着を起させることができるから、そこから抜け出し、人類社会に対する一切の執着を取り除いてはじめて、偉大になり、圓満成就に至ることができるのです" ("非政治" 精進要旨)

 人が私を誉めた時、私は心を動かされなかったと思いました。しかし、心が動かされる代りに、傲慢な、賞讚を認めることをしない無感覚が私の中に形成されてしまっていました。だから試練がきて、人か私の文章を書く技術(それを私は自分の才能であると思い、誇に思っていた)を批判した時、私の心は動かされたのです。

 "一人の修煉者として、常人の中で遭った一切の苦悩は関を乗り越えることであり、遭った一切の褒めたたえは試練なのです" ("修煉者は自ずからその中にいる" 精進要旨)

 私はこの経文を何度も読み直しました。しかし、本当の試練がやってきた時には、私の心は人の批評に動かされました。師父は言いました、

 "人の病気を治せて、気功師と呼ばれたので、嬉しくてたまらなくなりますが、それは執着心ではありませんか? 治せなかったら、しおしおと元気を失いますが、それは名利心のせいではありませんか?" (転法輪)

 私は他人の批評が気になりますが、法を用いて一切をはかることをしませんでした。そして自分がやることが、法の要求に符合するかどうか、分析することをしませんでした。一度逸れると、私は自分を修正し、向上するべきです。何故なら、師父が次のように言いましたから、

 "法は全ての執着、全ての邪悪、全ての虚言を破ることができ、法は正念を固めることができます" ("妨害を排除せよ" 精進要旨)

 自分の問題を真に見つけた時、私は平静になりほっとしました。コンピューターを付けて、やるべきことを続けました。更に執着を取除き、心性を高めた時、私は全てが正常に戻ったと感じました。書き直した記事を明慧ネットに投稿しました。翌日編集者から返事が来て、私の速い進歩を誉めました。その進歩は "速い進歩" によるものではなく、私の体から汚れを取除き、心身が少し向上したことによるものであることを、私は知っていました。丁度師父が言った通り、

 "それにもかかわらず、これらの良いものが再びやって来た時、もっと多くの富や幸運を持ったとしても、又はもっと困難があろうと、あなたはもう常人のようにそれらのものに執着していないことが分かるでしょう。あなたはこれらのことに淡々としており、それでいて全てを所有しているのです。その方が良いのじゃありませんか?" (北米初の法会における説法、非公式訳)

 私は歓喜心が無くなったことを、はっきりと感じ、躓いた後自分がもっと成熟し、理知的になったと感じました。師父は言いました、

 "絶えず執着心を取除くことこそ人間の修煉の過程のすべてです" (転法輪)

 まだまだやるべき多くのことがあるのが分かっています。

 4. 法を正す過程で自我を放下し、法の中に溶け込む 

 法を正すことが進む今、一つ一つの大きな変化は、正邪の戦いの重要な瞬間であると私は理解します。それは大法弟子が向上することを要求します。しかし殆んどの時、私は自分の反応が他の人よりも遅いと感じます。江沢民に対する訴訟を例にします。世界各地の学員がシカゴに集まって江の訴訟を支持し、盛大な活動を行なった時、私は多くのことが気になっていました。法理上それが重大な意義をもつと理解はしていましたが、常人がこの訴訟を理解することができるかどうか、訴訟が実質的に作用することを彼等が疑うかどうかが心配でした。だから私は同修達と協調を良くしませんでした。少し、いやいやでありさえしました。

 昨年、江の訴訟を声援してシカゴで大型の活動が行なわれました。その日私は活動に参加する為に、黄色い法輪功のティーシャツを来て下町へ向かおうとしていました。しかし、まず同僚に出逢って止められました。コンピューター室で私は学友達とおしゃべりし、それから図書館へ行きました。図書館を去ってから忘れ物に気付き、戻って行きました。図書館の用事が漸く終わると、三人が私の方へ来て言いました、「コンピューター室であなたの黄色いシャツを見たから、法輪功について話したかったのです。私達はチャールス・リーについてなら少し知っています。あなたは忙しそうに見えたので後ろに付いて来たのです。あなたが図書館に入るのを見、それから又入るのを見ました。話す機会が持てるかと期待してここで待っていました」。私は言う言葉も忘れて、彼等の言葉に感心しました。彼等は私個人を待っていたのではありません。代りに法輪功の真相を待っているのです。衆生の明白な一面が真相を待っているのです。その日私達は、法輪功は何かということから、江に対する訴訟やシカゴでの活動について、長い時間話しました。彼等はとても興味があるようで、行って見ると言いました。

 この経験から私は自分がまだ法を正す過程に追い付くことで、隙があると感じるに到りました。あれやこれやと心配している時に、師父がヒントを与えてくれましたが、私はそれでも自分の問題が正確に何であるのか、悟ることができませんでした。

 2005年、"九評" が大紀元社により発行された時、私は再び多くのことが気になりました。この度は更に良くありませんでした。私は法理上からこの件を理解できませんでした。誰もこの事で私と交流することができないのが気になりました。私は九評の宣伝と促進のための多くの任務を与えられました。ある日夫が、九評と退党関係から真相を伝えに、一人の市会議員を訪問するよう私に頼みました。私は全く乗り気がありませんでしたが、選択の余地はありませんでした。仕事に行く前に私はつい文句を言ってしまいました、「私の修煉状態で行くと、良い効果はないでしょう」。夫は言いました、「自分の感覚はお預けにしておきなさい」。

 通勤途上、夫の言ったことを考えて見て、私は突然これこそ私の問題であることを悟りました。私は自分の感覚を気にし過ぎました、自分のことを気にし過ぎました。私が真相を伝えた、私が大法の仕事をした、等々。学校の図書館の前で私を待っていた三人のことを思いました。今衆生の一人一人が大法の真相を待っているのではありませんか? CCPの邪霊のために多くの人は大法をはっきりと理解することができません。そのような邪悪に面し、私達は世の人々に真相を知らせるべきではありませんか? 私は気難し過ぎました。私は大法を肯定的な角度から人に勧め、真相を伝えたかったのです。何故なら、そのような講真相のやり方が、私の観念に符合するからです。九評や退党について知らせることは、やりたくありませんでした。何故ならそれは私の観念に合わなかったからです! これは実際利己的です。真相を伝えることの真の目的は、人に真相をよく理解させ、明るい未来を選択させることであり、一日に決まった人数の人に真相を告げることではないと、分かりました。大法を肯定的に受け入れられない人のために、私達は何が彼等を妨げているのかを考え、その障碍を取除くよう助けなければなりません。九評は丁度これらの障碍を壊す剣のようです。佛法は無辺です。大法弟子がやるべきことは、理智をもって常人の観念を切り裂くことです。ついに私は自分の隙を見つけました。自分の利己主義のために、私の講真相の基点は逸れました。だから私はいつも多くの心配事をかかえていたのです。肯定的な角度から講真相をしたとしても、問題があったのです。

 その日私は突然明らかになったと感じました。心の底から力強いものが起きました。私は直ちに市会議員との話のポイントを考え出し、インターネットから地図をプリントしました。以前感じたことのない使命と責任を感じ、法を正す過程の形勢を認めました。それは大法弟子が自我を放下し、法の中に溶け込んだ時にのみ起きる感覚でした。

 振り返って見ると、私の過去数年の修煉は、歩き始めたばかりの幼児のようでした。師父が私を導き、同修達が励ましてくれ、法の勉強と煉功を通じて、私は自分を修正しました。私は法の中に溶け込み、昇華し続けました。

 師父、有難う。同修、有難う!


(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2005/6/28/105026.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2005/7/14/62892.html