日本明慧


情が修煉の邪魔にならないように

 大陸の大法弟子

 【明慧ネット2005年8月1日】最近、私と私の回りの学習者は、皆感情面で妨害にあっている。主な表れとしては、相手と自分が大変気が合う。たとえば、ある学習者は漢詩が好きで、相手も漢詩が得意で、またある学習者はとても博学で能力のあるまじめな人が好きで、相手はまじめで、多くの本を読み、その業界で表彰されたことがある、等等。その上互いにとても好きで、甚だしきに至っては縁があると思っている。しかし結婚に言及すると、相手は修煉を放棄してくださいという条件を出したり、あるいは互いに譲りあったとしても、友達と連絡するな、あるいは外で真相を伝えないようになどの条件を出したりする。さもなければ別れる。ある学習者は酷い迫害のもとでも妥協することがなかったが、しかしこの方面で譲歩をしてしまった。

 私はその状況の中ではっきりと見えていないと気づいた。誤って縁があると思い、その中にはまってしまい、自力で抜け出せない。情から跳び出す時、初めて気づいたが、実は私達が情に対して緩めたので、よくないものが私達の隙に乗じて、私達をだめにさせるのが目的だと分かった。私はこの点を悟った時、すぐに驚いて目を覚ました。だから現在未婚で、恋愛している学習者は必ずこの方面の問題に注意してほしい。実は師父はすでに何度もこれらの問題を説いたことがあった。私はここで更にみなさんに注意したい。

 一部の学習者は、今更恋愛するのかと言った。それでは、改めて、楽な環境であれば恋愛、結婚して、情の中に浸ることができるのか?私は法の上でもっと次元を高めるべきだと思う。今私が結婚するかしないかは肝心なことではないと悟った。肉を食べるか食べないかは肝心なことではないと同じで、肝心な点は肉に執着する心、情に執着する心である。もし結婚せずに、修めて成就できれば、世の中の多くの独身者はみな修めて成就できるのではなかろうか。もう1つ肝心な問題はどうして結婚するのかということ。もし情欲のために結婚するならば、それでは結婚する前に、とても精進するかもしれないが、婚姻の後で情欲の中に浸って、自力で抜け出せないかもしれない。私は師父の以前の説法で、結婚するのは常人の形式に合わせるためであると理解している。もしこのためなら、更に身の回りに結婚できる相手がいれば、結婚しても何も影響しない。

  今私が情は何物でもないと悟った。それはただ1種の喜怒哀楽の要素であるにすぎない。常人はただその中にいるからこそ、すばらしいと感じる。あなたが情がとてもすばらしいと感じる時、実は常人の中にいるのだ。

  以上は私が最近悟ったことで、次元はかぎられているので、修練者の慈悲のご叱正を望む。合掌。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/8/1/107449.html