日本明慧


弟子の正念が満ちていれば 師は天を引っくり返す力も出せる

 文/瀋陽大法弟子・心明

 【明慧ネット2005年8月6日】私は今までの法の勉強を黙読から音読にしたのは、あることを経験してからのことです。以下は私が経験したことです。

 自宅にあるスタンドはかなり古くなっており、30分でも使えば、スタンドの底からツーツーとうるさい音が出て来ます。スタンドを使う時間が長ければ長いほど騒音も出続けます。私がスタンドを叩いても、押しても音は止まりません。しかし、修理に出すには値しないし、捨てるのも惜しいし、このスタンドは本当に私を悩ませます。

 これまで、私は「人を突破する」という言葉に対して、はっきりと理解していませんでした。ただ、人間の持っている観念を捨てることを指していると思っていました。しかし、観念そのものはあまりにも膨大で複雑過ぎて、私は突破口が見つからず、常に何らかの「障害」に妨げられているような気がしていました。ある日、『洪吟(二)/師弟の恩』の中に、「弟子の正念が満ちていれば、師は天を引っくり返す力も出せる」の文を読んだ時、まるで師父が自ら私に話しかけられているかのようでした。考えている内に、スタンドの騒音がまた鳴り出しました(又私に対して邪魔をしているのです)。私は非常に厳しくスタンドを見つめました。すると、「障害」が無くなりました。私はその時に、「人を突破する」の意味が分かりました(私個人の見解)。これまで、「生命」と言えば人類を指すと考えていました。せいぜい、家禽類と陸地の動物や植物も含むくらいのものとしか考えられませんでした。他のものについては、私の意識の中では、ただの物質でしかありませんでした。師父が『2003年ワシントンDC法会での説法』で、「三界の中の草木、土、石、人間、物など全ての生命は皆この法のために来ています」と説いておられました。

 私は再びスタンドに目を向け、嫌な気持ちは全く無くなりました。旧勢力が正法に対する邪魔と破壊、あらゆる生命に対して按配した迫害を考えました。そして、人に話しかけるようにスタンドに向かって、「この家にはスタンドは大小を入れて、全部で7つもあるのに、私はあなたのところでしか法を勉強していないんですよ。あなたはなんとラッキーなんでしょう。この法は、全ての生命を救い済度できるたった一つの大法なんですよ。チャンスを与えましょう。十分以内に、音を出さなくなれば、私は今後、法を勉強する時、声を出して読み、あなたと一緒に勉強しましょう」と言いました。そして、そっとしておきました。

 暫く経って、スタンドからの騒音は確実に小さくなり、私は嬉しくてスタンドを見つめました。スタンドはまるで無邪気な子供のように、落ち着かずに頭を下げて謝っている様子でした。私はスタンドに近づき、スタンドを撫でながら「あなたは良くやった! きっと救われるよ。あなたは悪い子ではないと分かっています」と話しかけました。同時に私は師父に加持をお願いしました。又暫く経って、騒音はますます弱くなり、一粒の錫の珠がスタンドの底で跳ねているほどの音しか聞こえなくなりました。私は跳ねている音の部分を指で押さえながら、心の中で、「自分のいるべき場所へ戻りなさい。これ以上、私を邪魔してはなりません」と念じました。

 そして、部屋全体が静寂になりました。時計は9時を指していました。この静けさに圧倒された私の頭の中は真っ白になり、内臓から筋肉まで全身がぶるぶる震えているかのように感じました。この時の心境はとても言葉では言い表すことができませんでした。私は一銭も使わずに、修理にも出さずに、たった一つの正念でスタンドの騒音問題を解決しました。感激して部屋中を歩き回っている私を見て、家族が「どうしたの?」と問いかけました。私はただ微笑み返しました。常人は決してこのような玄妙な境地に達し、感得することはできないでしょう。と同時に、私は『転法輪』の中にある「『修は己にありて、功は師にあり』なのですから、あなたにそういう願望があれば十分です。本当にこのことをやってくれるのは師で、あなたにはとてもそういう力はありません」の言葉を新たに認識しました。

 今回の体験から、多くの現象に対して、我々はある種の習慣と見なしてしまって、全てが当たり前のように思っています。それこそが、旧勢力が大法を破壊する為に、大法弟子が努力して来たことを無駄にさせる為の、人の目をくらます手段であるのに、我々は全く認識していません。我々は常に心構えをしているつもりでも、実際に関門の前に来れば、迷いの世界に入ったように見失ってしまいます。

 「人の観念を突破する」とは、人間が習慣づけられた情のために生きること、利己的な思想と行いを基準とすることを放棄し、返本歸真することを指すと理解しています。一人の修煉者が正念場に直面する際、本当に正念を持ち、大法の立場で物事を量れるかどうか、それとも、名利と情に束縛されてしまうのかどうかを見るのです。全てはこの修煉者が普段から本当に法を勉強し、法を真に理解しているかどうかにかかります。法の勉強が少なければ、人間の観念がどんどん現れてきます。しかし、人間の観念が頭の中にどんなに強く根付いていても、修煉者は如何に人間の考え方を取り除くかについて、大法の中に答えがあります。頭の中に大法を沢山詰め込めば、人間の観念も自然と少なくなります。法を多く学べば、学ぶほど大法の中に溶け込んで行きます。自分の一念、考えを全て法に於いていれば、人間の理念を持たずに、問題に直面するときに、法理が必ず謎を破り、そこから真相を分からせ、あなたも自然に事を良くし遂行できます。法の勉強が少なければ、正念も弱く、人間の思想行為がリードしてしまいます。迷いがあれば、すぐに他人のやり方を参考にしようとするから、却って修煉の道をスムーズに歩けず、転びながら歩くのです。師父は既に法の中で、大法弟子に対して「人を突破する」、そして「確固とした正念」について明らかにして下さいました。『転法輪』では、「心を正しく持つべし」「、主意識を強く持つべし」と教えて下さいました。

 常人の中の英雄達は自分達の所謂「信念」のために、異なる思想状態の下、表現形式上に於いても「人間の情」を放棄することができます。しかし、同じことでも中に潜む真の意味において、常人と修煉者の間では大きく異なります。師父は大法弟子に対して、常人が師に対する表面の形式は求めず、我々が正念をもって正しい行いをすれば、全ての事に対して大法をもって量ることができれば、よしとされます。あなたがこの一念を堅持できれば、きっと、浩々とした師恩の壮大さ、果てしの無い仏法を感じることが出来ます。

 体験をしてから既に長い月日が経ちました。しかし、思い出す度にまるでつい先ほどに起きたかのような気がします。現在、私は法を勉強する前に、必ず「法の勉強を邪魔しないで、全員注意して聞きなさい。今から読みます」と、頭にまずこの一念を発してから、朗読します。朗読していると私の心の奥底に、以前の、他の学習者達と一緒に勉強しているようなそんな雰囲気を感じます。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/8/6/107718.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2005/8/22/64144.html