日本明慧


明慧ネットの記事を読む時に、人心を用いることを避ける

 文/大陸大法弟子

【明慧ネット2005年7月27日】最近明慧ネットの記事を読んでいる時に感じたのだが、何が原因なのか分からないが、私の心態が正しくないと感じた。反省してみて、私は明慧ネットの記事を読んでいる時に、人心を用いていることに気付いた。多くの同修も同様の現象がある。

明慧ネットの多くの記事は常人社会からの報道である。だから、私達はしばしばそれらを人間的な思惟を用いて理解する。例えば、様々な国の正義の人からの支持を見て無意識に考える、「こんなに多くの人が私達を支持してくれている。もしも皆が支持してくれれば情況は大きく変るだろう」。

この観念は法理に符合するように見えるが、よく考えて見るとそれは常人の支持を得たいという、常人的願望から来ていることが分かる。一部の弟子は何故大法を支持する常人を崇拝し、過度に評価するのであろうか。 それは、彼等が法の角度から情況を見ず、修煉者と常人の関係を逆にしてしまったからである。

この記事を読んだ時の、第一念は、「多くの人が真相を知った。彼等は大法を支持することによって自分達の良い未来を築いている! 私はこれらの祝福された衆生に安心を感じる」というものであるべきた。

前後を対比すると、前記の"無意識" の念が正念から程遠いことが分かる。それは習慣的な人間的思惟であり、修煉において大きな障碍である。これは簡単なことではない。何故なら私達は不覚のうちにこのように考えるからである。もう一つ例を上げると、有名人(学者、官員、又は民主運動のメンバー)が大法への支持を表わすと、私達は有名人が支持してくれた、と嬉しく思う。この念は修煉者と常人の関係を逆にしてしまった。正しい念は、「もう一つの生命が救われた」である。

多くの類似したことがある。例えば、大法弟子に対し悪行を働いた警官に対し私達は、「この警官の背後にいる邪悪がこの警官に犯罪を犯させた。彼は無知の状態で邪悪に利用された。私達はこれら一切を否定し、邪悪を消去する必要がある」と考えるべきである。私達は単純にその警官が大法弟子を迫害していると、考えるべきではない。そうすれば、私達は人間的に見ていることになる。概略すると、私達は常人の形式の報道に心を動かされてはならない。私達は人間的な形式の一切から抜け出し、修煉者として大法弟子としての状態に到らなければならない。

(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2005/7/27/107041.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2005/8/18/64027.html