日本明慧


私たちがほかの修煉者の執着に直面したとき

 文/大陸の大法弟子

 【明慧ネット2005年8月18日】大法弟子は今まで三つのことすべてにおいて神通を発揮し、計り知れないほどの威徳を築き上げ、救いを待っている衆生を大量に救い、各空間の邪悪な腐敗分子を震え上がらせて、宇宙の神々の感心を得られました。皆さんの法に対する心はまさに「思いは巨岩のようで、志は金剛のようだ」のようです。先に修煉をはじめた弟子も最近修煉を始めた弟子も皆自分の誇るべき役割を持っていて、皆自分の修煉がうまくいった分野においてほかの弟子たちを激励しています。

 私は2002年4月に法を得て以来、一日も修煉をしなかった日はなく、一刻も心に大法がなかったことはありません。師父は私が滅ぼされる寸前に慈悲深く救ってくれたと考えるたびに涙があふれてきます。心の感恩は言葉で表しようがありません。私は修煉を始めてから、大法はすべてのものよりも大切で、“真善忍”は宇宙の万物が待ち望んでいるものだと悟りました。“朝に道を得ると、夕方には死ねる”これはまさしく私の心情を表しています。

 3年あまりの間、私は休むことなく法を広め、その効果もよいものでした。かなりの縁のある人が法を得ることが出来ました。私はいろんな角度から真相を話し、真相を知った人は数千にのぼります。しかしうまくいった方面に対していかなる歓喜心も持ってはいけません。それははるか昔の私の約束だからです。その約束で私は何人を救わなければならないか、私は知りません。しかし私の救いを待っている人たちはいまだ無数にいるのです。今までしてきたことはまだまだ足りません。

 しかししばらくの間、私は修煉のときに具体的な矛盾を処理する際にとても危険な態度をとったことがあります。私は二ヶ月間その状態が続き、今やっとそれから抜け出したところです。今回の経験で私は悟りました。「異なるレベルで修煉する人は異なる執着を持っている」ということです。執着と判別しにくいときもあります。それは「私の根本的な考えは彼のためだ。もしも彼が常人なら忍耐できるが、彼は修煉者なので、このような低レベルな間違いを犯してよいのだろうか?私は彼のために指摘したのに、なぜ直さないのか?彼は繰り返し私の前で間違いをおかし、私は繰り返しそれを指摘しなければならなく、それに大量の時間を費やしてしまい、三つのことに悪影響を及ぼしてしまう。私はコントロールできずに彼を非難してしまう」というようなときです。理由は「修煉者は修煉者に悪影響を与えてはいけない。彼が改善しないなら、私は二度と彼とかかわらないようにする」ということです。しかし、私の荒々しい態度は人に受け入れられず、私の言葉もすべて風刺と皮肉がこもっていました。私が激怒した理由は「これ以上あなたに私の修煉に影響を与えさせてはいけない」でした。皆さんが私のこの悪い点を指摘したとき、私は自分でもよくないと感じていました。しかし、どう調整すればよいのかわかりませんでした。この悪い状態から抜け出すには、もっと法を学ぶしかないと思いました。

 私は師父の《2003年旧正月十五日米国西部法会での説法》を読み返しました。師父はその中で“ご存知ですか? ただ修煉について言えば、宇宙の低次元においてとても複雑ですが、高次元になるととても簡単になり、修煉という概念もなく、ただ業力の消去という概念だけになります。更に高い次元になると、全ての厄介なことは天に上るための道を開いているだけであると言っています。”とおっしゃっています。私はこの部分を読み終わると全身に震えを感じました。“全ての厄介なことは天に上るための道を開いているだけである”他人からの厄介ごとに対する私の今の態度は、理解しがたく、奇怪な厄介ごとになると機嫌をそこね、怒ってしまうというものです。しかし、全ての厄介なことは天に上るための道を開いているならば、私の天への道はここでちょうど階段が何段かかけていることになります。厄介ごとこそ天に上がるための階段ではありませんか?厄介ごともかわいいのとかわいくないのに分かれるというのですか?天への階段になる厄介ごとにもすきなのときらいなのがあるというのですか?私によって選ばれるというのですか?師父によって決められるのではないというのですか?どんなに奇怪な、どんなに予測不能な、そしてどんなに人を悩ませる厄介ごとでも、天に上がるためになくてはならない階段であり、さけられないのです。この厄介ごとを憎むならば、これらの階段がいらないということになります。しかし私はそれでも天に上がりたいと思っています。そうすると以下の二つの結果しか得られません。ひとつは、永遠にその場に立っているということです。もうひとつは、階段がかけているので前に進めず、あせって何もないところを踏んでしまい、いっきにどん底まで落ちてしまうということです。

 ここまで悟り、私は師父が法で私を諭し、認識を高めてくれたことに気づきました。今後さらに大きな厄介ごとに出会ったときは、私の観察点と認識は今までとは違ったものとなっているでしょう。もちろん、今までとはかけ離れたものとなっているでしょう。法に溶け込んだ心は常に厄介ごとに備えておく必要があります。つまり、常に厄介ごとを天に上がる階段、天への道にするために備えておくのです。

 一方で、いつもほかの修煉者の欠点をみて気分を損ねること自体、自分の強烈な執着の表れではないでしょうか?自分の要求、考え方にあわない人を嫌い、気分を損ねるのは明らかに人の情けが非常に重い証拠です。好き嫌い、人のえり好みもすべて情けだからです。神と人の違うところは、神は法を用いて物事を行い、いかなる好き嫌いもしないということです。

 これは、修煉者の問題に気づいても指摘しないことではありません。ほかの人の明らかな問題に気づいても指摘しないのは大法弟子の標準にあいません。しかし指摘するときの心の状態はそれぞれ違うでしょう。あるときは心からの慈悲で、あるときは見せびらかす心があるかもしれません。特に他人の短所がちょうど自分の長所であるときはそういう心が表れやすくなります。このことは程度が違うだけで弟子一人ひとり持っているかもしれません。一方で、他人の問題を指摘してもその人がなかなか改めないときは、それで悩むのはやめましょう。それも執着だからです。人にはそれぞれ運命があり、修煉者の運命もほかの修煉者によって変えられるものではありません。

 私たちは大量に世の人を救うのと同時に、個人の修煉を怠らず、自分の欠点を内側に探すようにしましょう。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/8/18/108612.html