日本明慧


「自然に任せる」についての 私の見解

 文/オーストリア西洋人大法弟子

 【明慧ネット2005年8月14日】 自分はよく修めていると思っていると、またよく修められなくなってしまうのはなぜでしょうか?

 大法を修煉して数年間は、多くの執着心を発見し取除くことができました。生活もそれに連れて大いに変わってきました。
 
 私にはこういう状態があります——自分は心性の試練をうまく乗り越えられた、と思うと同時に、またほかのことが新たに起きてしまいます。これは実は本当に悟っていなかったからだと認識しました。心の中で「なぜ?」と自分に問いかけましたが、これは結果を求める心と関係があることだと分かりました。今は分かりましたが、自分が思っている善し悪しに従って進めることは、まったく意味のないことです。これはやはり自分を乗り越えていなかったからでした。一番大事なのは、「真・善・忍」から離れたままで、師父がおっしゃった三つのことをしっかりと行うことは、まったくできないということです。これも、「無為」及び「何事もまず他人のことを考える」ことに対する私の見解です。私が真の純粋さと無為に達してこそ、はじめて自然にまかせて、大法弟子の道を順調に歩むことができるのだと思います。
 
 上述した例に、歓喜心が働く原因もあります。心性の試練をうまく乗り越えたと思い、心の中で喜んでいる時、私はまた落ちてしまいました。これも同じ執着心だからです。
 
 また「自然にまかせる」ことに関しての私の見解について述べてみたいと思います。「自然にまかせる」とはなんですか? 「自然」とはなんですか? 師父は《転法輪》の第一章で「真・善・忍という特性を持った宇宙空間は本源的に善良なものであり、人間も生まれた時は、宇宙と同じ特性を持っています」とおっしゃいました。
 
 いま、私たちは最も低い次元に落ち、しかも最も悪がはびこっている時期におります。「自然に任せる」という言葉の意味は、物事がすでに起きたからそのまま受け止めるということではなく、真に法に基づいてすべてを判断すべきです。「自然に任せる」とは、実は法に従いできるのであり、法はまさに自然なものであるからです。
 
 個人の理解で、適切ではないところはご指摘をお願いします。


(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/8/14/108352.html