日本明慧
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文/飛鳴 【明慧ネット2005年8月23日】ここでの「エリート」という言葉には、ほめる意味も、けなす意味も入っていません。私がここで具体的に言っているのは、社会で影響力がある、正義感のある人たちのことです。大法弟子が真相を伝える時、これらの人たちと付き合うことは避けられないのです。法を正す基点に立ち、常に大法の法理を言行の基準としてこそ、真に真相を伝える役割を果たすことができます。もし、私たちが常人の執着心で対応すると、マイナスの影響を及ぼしてしまいます。 例えば、ある作家はこう話しました。 「一人の学習者が、『大陸のインテリには、立ち上がって迫害に反対する人がいない』と、文句を言いました。また『文章を書いて法輪功の迫害を暴露するのは、あなただけだ』とも言いました。学習者がこう言うのは、私の賛同を得るためだと思っていました。私は、『民主運動家が迫害に遭ったとき、あなたは、立ち上がりましたか?』と、学習者に問い返しました」。 その学習者は、ただ事実を指摘しただけだと私は思います。しかしその作家の反応から、学習者は、もしかしたら二つの執着心を持っていたので、作家に反感を抱かせたのではないかと思います。 その一 その二 そのほか、災難にあった民主運動家のため、呼びかけることですが、私たちは、大法を修煉する前は実は常人であり、常人の私心と臆病心を持っており、勇気をもって立ち上がることは、なかなかできないのです。大法を修煉して、私心と恐れる心をだんだん取り除き、立ち上がる勇気を持ち、大法に対する邪悪の迫害を暴露し、真相を伝えるようになりました。災難にあった民主運動家に私たちは同情します。大法弟子が創立したメディアでは、全力を尽くして彼らの遭遇を暴露しています。 法を実証する時期の大法弟子として、私たちはもっと大きな使命を担っています。私たちが行うすべては、世の人を救い済度するためであり、世の人を永遠に幸せにするためです。大陸と海外の大法弟子が払った代価は、どんなに大きなものだったか、特に多くの大陸の大法弟子が受けた苦しみは、想像より遥かに大きいものです。それに対し常人(民主運動家を含む)は自我を放下し、さらなる調査をしないと、全局を見極めることができないものです。民主運動家は政治を行っていますが、大法弟子は政治に参与しないのです。迫害に反対することにおいて、形式上の共通点がありますが、迫害に反対するのは、修煉者がこの特殊な時期だけに行うことです。根本から言うと、修煉は生老病死を超えるもので、人生の真の意義が分かり、宇宙の特性—「真善忍」に同化しようとする生命にとっては、常人の中のいかなる政党、政権、政治と常人のことに執着しないのです。 海外の一部の学習者は、ある作家をとても崇拝し、ひいては学習者の内部の修煉に関する交流にも、この常人の作家を誘います。もちろん、常人の中の正義のある人の勇気と行動は感心させられますが、常人はやはり常人であり、常人の各種の執着があります。修煉者は法の中で絶えず自分を浄化しています。私たちは神に向かう生命であり、生活の基点、物事を行う動機と目的は、みな常人を超えるものです。修煉者として、他の修煉者あるいは常人を崇拝するのは、常人の心を以って物事に対処することであり、法をよく勉強せず自分を大法弟子と見なしていないことです。 この文章のタイトルは「大法の尊厳を守る」ですが、大法の尊厳を守るということは、わざと、高慢、孤高をみせることではありません。実は、傲慢と劣等感は、同じ執着心の裏返しです。私たちが傲慢になることはないのです。師父の救い済度がなかったら、私たちは、身体中、業力に満ちたままです。法を正す修煉の今日に至っても、私たちは、内に向かって自分の執着とよくない心を探し、取り除くべきです。 私たちが大法の尊厳を守るには、自分が法を正す時期の衆生を救い済度する大法弟子であることを認識し、常に大法の法理に従い、自分の言行、考えを厳しく律するべきです。こうすることで、自身に巨大な善のエネルギーが生じ、衆生を救い済度することが出来ます。 師父の教えに感謝いたします。法を学ぶにつれて絶えず浄化され、執着している心と汚いものを認識し、努力してそれらを取り除くようになりました。以上は、わたし個人の今の次元の認識です。
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