日本明慧


法輪大法の修煉は、言葉では表現できない美妙なことである

 文/フランス大法弟子

 【明慧ネット2005年8月30日】一年前、私は自分が住んでいる所からずいぶん離れている商店へ野菜を買いに行った。その時、商店の向こう側では、ちょうど酷刑展を行っていた。私は、自分の心に一番恐怖感を与える光景を見て、心からびっくりした。同時に、私は、このような迫害を受けている人達は、きっと超常的な人に違いないと思った。「この人達は、残酷な迫害を受けているにも係わらず、自分が正しいと思う《真・善・忍》をずっと守っている。この功法は、きっと他の功法と違う素晴らしい功法かも。」

 私は、彼らが配った真相資料を持って、すぐ家に帰り、一気に読んだ。心からこの功法に対してもっと理解したいと言う望みが生じた私は、再び、酷刑展を行っている場所へ戻り、彼らに煉功点のことについて聞いた。

 翌日の朝、目を覚ました私は、全身が病気になったような感じで、とても具合が悪かった。そこで、頭から「煉功は、次週にしようかな。」と言う考え方が生じた一方、他の全然違う考え方も心から浮かんだ。私はすぐ自分に、「だめだ。この日をずっと待っていた私ではなかったのか。絶対、また一週間を待つわけには行かない。」と言った。

 この功法は、煉功動作はちょっと難しい部分もあったが、やると気持ちが本当に美妙であった。煉功後、私は少し腰の疲れと脚の痛みを感じたが、体全身は本当に言葉で言えないぐらい気持ち良かったのである。

 私は、快速で《転法輪》と言う本を読んだ。快速と言っても、以前の私の読書スピードと比較したら、非常に遅かったものである。普段、私の読書スピードは非常に速くて、2、3時間で300ページぐらいは、さっさと読み終わったのである。しかし、今回、私は、一番簡単な言語で書いてある《転法輪》を、三日間もかかって読み終わったのである。

 今まで、私は、ずっと「毎回読書する時、私の感じは、果物を食べているような感じで、本は読むよりも、むしろ“食べている”感じである。果物は、簡単に体に吸収されるが、《転法輪》の本は、頭に簡単に吸収されない。」と言う考え方であった。法輪功を修煉してから、私は毎回、とても快い気持ちで、《転法輪》を読んでいるのである。私は、現在まで、《転法輪》を数十回も読んでいるが、《転法輪》を全部“吸収”したと言う感じはしないのである。《転法輪》を読むたびに、異なる意味が理解できると同時に、もっと深刻に理解でき、更なる高い境界へ辿ることができた。他の中国と西方同修達との交流を通じて、彼らの認識と法理に対しての理解は、私を上達させると同時に、私を豊富にしてくれた。

 私は、自分が遙かに遠い以前から探した一番大事なものを発見したと思っている。一番珍貴なものを得たからこそ、もっと大事にしなければならないのである。法輪功を修煉し始めた第一週目から、私は自分を厳しく要求するのに非常に注意し、極小さいことでも気を配るようにした。そこで、自分に対して、ほんの少しの善心も無くなり、正確に法理を理解することができなくなった。実際、私は極端の所へ行くところであったのである。

 修煉し始めた第二週目のことであるが、私はいまだに、「私は、全てをやり破ってしまった。私は今回の機会を握ることができなかった。」と言うその時の考え方をはっきり覚えている。私のこのような考え方を除去するため、私のこの方面の執着心はだんだん暴露して来たのである。しかし、相対的に言うと、私のこのような自分に対しての厳しい要求は、その良い所と積極的な方面もあったのである。

 私は、以前、飲酒・吸毒と離れない毎日を数十年も過ごした歴史がある。また、毎回の飲酒量と吸毒量は、非常に多かったのである。法輪功を修煉する前、私は数回も飲酒・吸毒をやめようと試みたが、成功できなかったのである。しかし、法輪功を修煉してから、私は十分の力で、飲酒・吸毒をやめることができたのである。心の底から本気に良い人になることを決めたので、煉功し始めた第一週間目に、私は飲酒・吸毒を停止することができたのである。

 法輪功を修煉し始めた私は、だんだん他の同修との接触もあった。特に、師父の講法ビデオを放送する九日間の講法班に参加した私は、他の同修との交流もあったのである。私は、同修達と一緒にいると、いつも幸福感を感じる。他の人との交際を非常に重視していた私にとって、同修達は私の心の中で非常に重要な位置にあるのであった。数カ月間の間、私は彼らと非常に厚くて充実な関係を築き、自分の親しいかつてのお友達が見つかった気分であった。

 法輪大法が私に与えた生命の意義は言葉では言えないぐらい重要であったので、私の生活はどんどん調子に乗っていた。以前、私の生活は、パズルゲームのブロックみたいにばらばらになっていたが、今は、そのばらばらだったブロックが一気に出来上がった気持ちである。本当に、法輪大法の修煉は、言葉では言えないぐらい美妙なことである。

 独立と自主を非常に望む人であった私であるが、大法の中で、私は自分の心の扉を開けて、自尊と他人を尊重する中で、自我の空間を乗り越えることができた。この前までも、すぐ怒ったり、自分に対して厳しすぎたりしたことがあるが、現在、私はこの方面を過去として認めると同時に、心から《真・善・忍》に同化して、前向きに修煉の道を歩むことを決心したのである。
 

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2005/8/30/109425.html