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再び刑務所に入れられた王霞さんが記憶喪失に陥った(写真)

 

 【明慧ネット2005年9月18日】王霞さん(女性、1974年生まれ、内モンゴル臨河市住民)は、法輪大法を修煉したことにより、99年以来、数回にわたって拘禁され、最後には不法にも懲役7年という判決を下された。王霞さんは、内モンゴルの第一女子刑務所で、めった打ち、性的侮辱、串を爪に差し込むなど、各種の残酷な迫害を受け尽くした。また彼女は精神病院に送られて迫害を受け続け、記憶喪失に陥った。

 1999年11月王霞さんは、フフホト市内モンゴル女子労動教養所に送られた。彼女は内モンゴルで刑務所に入れられた初めての大法弟子だった。2000年8月、妊娠8ヶ月の王霞さんは、保証人を立ててやっと家に戻って子供を産んだ。2002年2月王霞さんは、再び捕えられ、フフホト市留置場に入れられました。2002年3月初め、王霞さんは絶食を始めて29日後に体調不良を訴えて家に戻されたが、見張りをつけられて始終監視される状態だった。彼女は3日目、極度に衰弱した体で塀から飛び降りて脱出する際、転んで顔と腰に怪我を負った。邪悪な警察は内モンゴル中に指名手配令を出した。

 2002年5月21日、王霞さんは、包頭市で逮捕されて23日間絶食で抗議を行いました。彼女は、包頭留置場で麻薬中毒者らにめった打ちされたり、罵られたり、食物を強制的に注入されるなどの虐待を受けました。7月28日、王霞さんは、包頭留置場からフフホト市留置場に移され、そこで集団絶食を行った。8月に不法に審判を受けられ、なんと懲役7年という判決を下され、内モンゴル第一女子刑務所に送られた。

 内モンゴル第一女子刑務所で、王霞さんは絶食を行い、2002年12月フフホト市二院(教養所病院、院長は陸氏、王氏、張氏)に送られた。そこで彼女は、殺人犯と麻薬中毒者の李雪梅、劉暁傑、顧莫、劉小園ら4人の監視と抑圧を受けた。彼らは毎日どのように彼女を苦しめるかを考えた。実際病院側は、王霞にまったく関与しなかった。ある日、院長が王霞さんに強制的に食べ物を注入しようとした時、牛乳が噴き出て彼女の全身を濡らし、これ以降全く王さんと関わろうとしなくなった。

 王霞さんは、ほとんど毎日のように殴られて、顔や手に痣ができ、古い傷に新しい傷が重なるほど、4人の悪人から様々な迫害を受け尽くした。例えば、掃きものを半分に分けて、それぞれに布を巻き付けて、打った痕跡が残らないように工夫して苦しみを与えた。また、残忍なことにそれを王霞さんの下半身に入れ込んだりした。ある日、彼らは空気を入れ替えるように王霞さんに指示したが、彼女に拒否されたとことに腹を立て、彼女を逆さまに吊るして3階から下の庭まで引きずって行った。そこで邪悪らは、彼女をめった打ちにし、また、大きな串を王霞さんの爪に差し込み、更に火をつけて焼いた。4人は王霞さんを入り口の鉄の柵に縛りつけ、トランプをして遊んだ。王霞さんは、様々な残虐な迫害により、痩せこけて骨と皮ばかりになった。王さんが刑務所で迫害を受けている間、監獄の悪警らは、王霞さんの父親と夫、そして幼い息子を呼びつけて彼女に圧力を加えた。内モンゴルの蒸し暑い夏は普通の人でさえ耐えられないのに、極度に衰弱した王霞さんは、24時間体を引っ張られたままベッドの上に縛りつけられました。鼻にはゴム管を挿し込んだままでちょっとした動きも取れない状態だという。

 2004年6月29日、悪警官は、王霞さんの体の状態が良くないのを見て、やっと彼女を家に返した。釈放を2日前に控えた邪悪らは、やっと彼女への暴力をやめた。王霞さんは、担架で家に運ばれた時は、頭が垂れていて、体の骨がはっきりと見えていた。鼻にはまだゴム管が挿し込まれたままだった。同時に、王霞さんはすでに精神病院に何ヶ月も入院させられていて、記憶がなくなっていた。以前の事は忘れていて、帰ってきても何も覚えていなかったという。

フフホト市女子刑務所での迫害により、息も絶え絶えになっている王霞さん(2004年7月)

 人間性のない何人かの見張りの犯人らは「覚えていなくて良かったじゃないか。じゃなければ私たちに殴られたことを言うではないか」、「汽車から降りてゴム管を抜けば死んでしまうさ」と、ぬけぬけと言ったという。

 王霞さんが家に戻って一週間後、彼女の父親は刑務所に電話をして、王霞さんが生き返ったと伝えた。邪悪らは、再び彼女を内モンゴル第一女子刑務所に入れた。

 現在、王霞さんはフフホト市内モンゴル女子第一刑務所に監禁されているが、食を与えれば食べ、与えなければ求めず、何も分からず、以前の事はまったく覚えていない。

 善良な人々は、王霞さんの安否に関心を持つよう希望する。そして、大法弟子は正念を持って邪悪の迫害を暴き出すことを期待する。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/9/18/110644.html