日本明慧


「法を暗記する物語」の感想

 文/醒鴻(台湾)

 【明慧ネット2005年9月27日】長く修煉体験を書いていなかった。自分を執着する心が強いと感じていて、現在の状態を突破してから初めて体験文を書けると思ったこともあり、最近常人の仕事が多く、修煉の支障にぶつかって突破できず、非常に苦しく、疲れていると感じていることがもう一つの原因である。

 正見ネットを開いて、「法を暗記する物語」を読んだ。物語の中の同修が、迫害の後に一度修煉を放棄し、師父の慈悲なる指摘で大法修煉に戻った節を読んだとき、私は思わず泣いた。自分の人としての一面は、突然涙が流れるなんて全く分からず、恐らく自分がよく修めた部分が師父の慈悲の偉大さを感じて、自分の人としての一面の精進しないことに泣いたのかもしれない。

 最近、思想業力の邪魔が強く、頭ではよく勝手に絶えずいろいろなことを考えてしまい、常人の方式でこの業力と戦ってもあまり効果がなかった。同修の法を暗記する体験にはこう書かれていた。「法を暗記する最大のメリットは、頭がほかのことを変えないで集中できる。集中できなければ暗記できない。もう一つのメリットとして、どこでも大法の勉強ができるし、いつでも悟れる。時間を探して法を学ぶ必要もなくなるし、本を読むとき、思想業力と長期戦になることもなくなる。なぜなら、暗記する決心ができれば、思想業力、いろいろな邪魔との決戦で、速戦速決、すぐ効果が現れる」。私も昔、法を暗記したことがあったが、あるとき図書館で法を暗記するとき、思想が爆発しているように、体全身の幾層もの微視的要素に徹底的な変化が起きていた。思想業力など初めから存在しなかったようだった。しかし後に困難にぶつかった。法を暗記するのを諦めて、また前のような受身的な思想業力と対抗する状態になったことを思い出した。

 法を正す修煉の最後の段階で、法が我々に対する要求は「神が世にいて、法を証明する」境地で、自分の思想の深いところが、有意か無心か、消極的に本当の法を正す時期の弟子の責任を恐れていることを考えてみると恥ずかしい。恐れる心は中国大陸の弟子に対するものだけでなく、我々海外の大法弟子もこの心を徹底的に取り除かなければならず、この人の名利情を失うことを恐れる向上したくない心を取り除かなければならない。

 同修の交流で自分の欠点を見つけたことに感謝する。我々は皆ともに法の中で熔煉し、法の中で精進し、「圓満となって師に追随して返る」。(『縁帰聖果』)

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/9/27/111317.html