現在に至っても法輪功が政治的になってきていると恐れる同修へ
【明慧ネット2005年9月20日】私は一大法弟子である。大法弟子として何年修煉してきたかとか、法の認識の高さに関わりなく、私たちは神を信じる。私たちの信仰は人類の歴史の展開から来たかもしれず、又大法の神秘を目撃したことから来たかもしれない。
法を正すことがこの時期にやってくる。常人や大法弟子が大法の超越した威力を目撃したかどうかに関わらず、それはやってくる。同時に彼らは大法の法を正す過程を目撃するだろう。彼らは多年に渡る残忍な迫害がもたらした代価に気づかされるだろう。
ともかく、今日に至っても、法輪功が政治的であると言う人々がいる。そのような非難が常人の口から出たのなら、私たちは許すことができる。しかしそれが大法弟子の口から、特に大陸の大法弟子の口から出たなら、それは深刻なことであると私は信じる。これらの人たちは大法が洪まっている根本的な理由が、はっきり分かっていない。
師父は転法輪の中ではっきりと告げた、「末法の時期とは佛教だけを指しているのではなく、かなり高い次元から下までの多くの空間が堕落していることを指しています。末法とは、佛教の末法のみならず、人類社会が道徳を維持するための心の法の規制を失ったことを言うのです」。
大法は人類を正すためにやってきたことは、明らかである。それは、非常に高い次元の空間から低い次元の空間までを正す。その正すことは、人類社会だけに留まらない。
人類をよく見てご覧なさい。今日では人々は道徳の意味さえ理解しない。彼らは“すみません”と“ありがとう”を言うとき、礼儀正しいと考える。考えられないような不道徳的行為が、普通のことになってしまった。新聞は人々が殺される場所や、災難の起きた場所、毎日のように起きる大事故などを報道する。人々は麻痺してしまい、もう気にしなくなってしまった。彼らは自分のことで忙しく、人のことを気にしない。何故か?彼らはあまりにも多くの不幸を見聞きしたからである。
政治とは何か?現代中国人の頭の中では、それは権力と利を何としても得ることを意味する。“共産党”はただ権力を自分のものにする口実として存在する。私の権力を奪わない限りは、あなたを攻撃しない。あなたが殺人を犯そうと、放火しようと、その他の悪事に関係しようと、そんな事は重要じゃない、私はあなたに青信号を与えるだろう。しかしもしもそれが、私の権力に影響するなら、それが如何に偉大な恩益をもたらそうと、そんな事に関係なく私はすぐに行動を取るだろう。権力の座にある者は、共産党の邪霊にとりつかれているかどうかなど、気にしない。彼らは金儲けだけを気にしている。
大法の大法弟子への要求は、世間において損得を追求しないことである。病気は執着を放下することによってのみ治る。執着を放下することは、功を伸ばすための必要条件である。これが、あなたが真の大法弟子であるかどうかを証明する標準である。大法が政治的であると、どうして言えるだろうか?政治的な者たちは、利己主義を含む多くの悪習を持つ。それが権力争いをする者たちの根本的な性格である。
“シカゴ市での説法”の中で師父は言った、「釈迦牟尼とイエスが済度した衆生も実は彼らのために按配した者で、歴史上大法のために文化を築きました。同時に、神がこの道でどのような問題にぶつかり、遭うのか、歴史上にそれを表し、今日の人類に示しています。もちろん私にも見せています」。
お分かりになるだろうか?修煉する人は皆、迫害を受けるということに、人々に気づかせるのが意図されていたのではなかろうか?師父にもそれを分からせようとした。それは法を正すことにおいて、師父に困難をもたらしたのではないだろうか?それにどのように対処すればよいのか?今日の大法と大法弟子に対する迫害は、イエスの扱いと同じだろうか?神が人を済度するためにこの世にやって来た。人間は何と幸運なことか?彼らは神を大いに敬うべきである。ところが人間は何をしたのか?彼らはイエスを十字架に磔にした。神は人間からのそのような扱いを受けるのが当然だったのか?
旧勢力は人間を人間として扱わない。彼らは人間を動物に変えてしまう。人間は善悪の分別もできない、冷血動物なのであろうか?これは人間に対する侮辱である。常人でさえ理性的な人はこのように侮辱されるのを好まない。ましてや大法弟子なら尚更である!私たちは少なくとも人間としての尊厳を守るべきである。共産党の邪霊にとりつかれた権力者たちの、私たちが政治的であると言うのを承認するとは、どのような心であろうか?私たちは又、平凡な修煉者ではない。私たちは法を正す時期の大法弟子であり、法を正すことで師父を助けるために来たのである。どのような状況下においても、私たちはイエスの扱いが人類社会で繰り返されるのを、許してはならない。私たちはこの状況を変えるために師父と共に来たのである。私たちは人々が、正邪と善悪を見分けられるよう、教育しているのである。彼らが盲目の羊のように従うことを許すわけにはいかない。
常人の一部は、大法弟子の一部でさえ、師父がなぜ米国へ来たのか、まだ理解していない。それが又“法輪功が政治的である”という説の原因ともなっている。実際師父は、早い時期に米国へ来ることができた。この迫害に関しては、師父の洞察力と先見の明を表している。私はこのような偉大な師を持つことを誇りに思う。更に、師父は宇宙天体を正し、ミクロからマクロまでの各次元の衆生を済度しようとやって来た。人間世界とは全人類を指し、中国人だけではない。このようにしてのみ、全人類を最大限度に救うことができる。
師父は無私であり、宇宙の全衆生を見ている。だから、弟子たちにも無私な覚者となるよう指導する。しかしながら、旧宇宙は、利己的である。“自分のために計らぬ者は、天地の罰を受ける”といわれる。悪人は大法と大法弟子の迫害と弾圧において、そのような思想を固守している。しかし、彼らは“天”が新しい天となり、“地”が新しい地となったとは、予想しなかった。利己的な“天地”はもう存在することができない。彼らが自分の身を置く場所は、どんどん少なくなっている。利己的な理は、永遠に去ってしまった。法を正すことは、旧境界を快速に縮小している。だから、利己的な人は立場を失う恐れから、“法輪功は政治的である”と言いはる。彼らは自分たちの存在をできるだけ長く引き伸ばすために、そうするのである。
しかしながら、大法弟子が大法は政治的であると言うとしたら、それはどういう意味なのだろうか?あなたはまぬけなのか、それとも誰かを庇おうとしているのだろうか?権力者たちは共産党を口実として利用して、権力と富を得ようとする。中国古代の諺がこのことをはっきりと表している、“党を結び、私利を肥やす”。
共産党の邪霊は、これら良からぬことばかりを考える悪人たちを利用して、大法弟子を迫害する。彼らは“政治的”というラベルをもって、中国人を脅して従わせる。しかし、どのような行為が政治的という標準に合うのだろうか?共産党の高官でさえこれをはっきり説明できない。
“政治的”というラベルに固執している同修は、ことが複雑になるのを恐れている。明らかに彼らは利己主義を優先としている。何故なら、彼らは政治的ということの意味が理解できないからである。
私の言葉使いは、少し強すぎることを認めるが、私は実に心配している。私は心からこれらの同修が無私の心をもって、宇宙空間と大法を見て、歴史と史前の文明を通じて、根源を考えるよう希望する。そうすれば彼らは私たちが行っていることと、大法が行っていることを理解するだろう。
邪悪の迫害が続き、大法弟子が大きな代価を支払う時、師父は言った、「自分がいくつの執着をもっているか、静かに反省しなさい。人心を取り除くに従い、邪悪は自ずと消え去る」。(“悲しんではいけない”洪吟II、非公式訳)どうして大法が政治的と言えるのか?政治的な人たちは大法弟子と同じことを行うことができるだろうか?
“九評”は、共産党の邪霊の覆いを取り除く。更に多くの人々が悪魔の特徴を近距離から、又遠距離から、はっきり見ることができる。“良い人間は事を成し、責任をもつ”という。中国という大国家を統率していると見せかける共産党の頭領は、“天安門広場の焼身自殺事件”のような下等なものをでっち上げることさえした。しかし、彼はそれに対し責任を取ろうとはしない。
法輪功学習者たちは、焼身自殺の記録をスローモーションで人々に見せ、注意深くその真相が暴かれるのを見せる。しかし共産党は法輪功学習者を、あちこちで政治的という理由で捕らえる。もっともおかしいのは、修煉者の中にもこのように考える者がいるということである。考えてみなさい。あなたは何処に自分を置くのだろうか?
あなたは“仏”が宇宙の保護者であり、人類だけの保護者ではないことを知っているにちがいない。彼らは特に何処かの国や特定の人々を保護することはない。仏法は人類をも含む宇宙全体を制約する。その法は特に人類社会のために作られたものではない。仏法は一国の国法に代わることはない。
近い将来、人類社会は自分たちの法を持つだろう。人類は又、責任感ある、皆とうまくやっていける人をリーダーに選ぶだろう。しかし彼らは法を正す時期の大法弟子ではない。師父は常人の権力については関係しない。神は修煉者を保護することができ、常人が災害から安全であるようにし、全てを按配する。しかし、神は、常人の事を管理することはない。
しかしながら、三界と人類社会は神によって造られ、数知れぬ神や衆生が元来た場所へ戻るために取らなければならぬ路である。これら数知れぬ神や衆生が元へ戻るのを邪魔しようとする者は、人間であれ、魔であれ、宇宙の各次元にいる神々は容認せず、彼らは未来に存在することを許されない。これは又師父が法を正す中で行おうとしたことであり、後の世代が未来を持つようにという師父の願いでもある。
以上は私の浅はかな認識である。正しくないことはご指摘戴きたい。
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/9/20/110626.html)
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2005/9/30/65428.html)
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