日本明慧
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【明慧ネット2005年10月5日】2005年9月の一ヶ月間に、44名の法輪功学習者が虐殺されたことが民間の情報により確認された。1999年7.20、中共と江沢民集団が公然と法輪功を弾圧して以来、すでに2742人の法輪功学習者が迫害によって死亡した情報が確認された。 9月の44件の虐殺案件のうち女性は24人で全体の55%を占めており、55歳以上の法輪功学習者は31人で70%を占めている。そのうち24人は2005年に虐殺され、7人が9月に虐殺された。また明慧ネットの資料ネットによると、2005年1月から9月にかけて、360人の法輪功学習者が虐殺されたという。 さらに、省別に見ると、上述した44件の死亡案件は中国大陸の12の省と自治区に分布している。河北省は8件、黒龍江省と山東省はそれぞれ6件で、遼寧省と四川省はそれぞれ5件、吉林省と河南省はそれぞれ4件、貴州省は2件、甘粛省、西省と広西自治区はそれぞれ1件である。 6年来、中国大陸の法輪功学習者は、中国憲法の規定による信仰、上申などの公民が享受すべきあらゆる権利が剥奪され、ひいては民間で意見を表明する権利まで奪われた。隣人や友人に法輪功の真相を伝えるだけで、監禁、労働教養、拷問さらには虐殺に直面せざるを得ない。 *河南省の賈俊喜さんはひどく殴打され死亡、警察は「北京まで上告しても無駄だ」と家族を脅かした 賈俊喜さん(58歳、男性)は、大新郷前小庄行政村丁崗村9組に在住していた。2005年8月18日、同村の人たちに法輪功の真相を伝えたときにつかまった。8月28日、扶溝県看守所の個室に閉じ込められ、4人の刑事犯が警察の棒で彼を滅多打ちにした。その後、ドアがずっと閉じられたまま、しかも面会などは全く許されなかった。8月30日、警察は世間を騙すために、こわばった死者を病院へ送り、医者が「あなた達は死んだ人を連れてきてどうするの?」と言い、病棟に入れず、結局廊下に放置した。 8月30日午後6時ごろ、賈俊喜さんの家族は扶溝県公安局の死亡通知を受け取った。親族や同郷の人が病院に着くと、賈俊喜さんのあごの関節は固く閉まり、両目は大きく開いて、片手は強く握り、片足は半分曲がり、顔が完全に分からなくなっていた。同郷の人は「なんて酷い、どうやって死んだの?」と驚いた。警察は「心臓病の発作で死んだ」と嘘をつき、家族が検死を要求したが、警察は「勝手にしろ、北京まで上告しても無駄だ」と脅かした。 その後、家族の反対意見を押し切って遺体を強制的に火葬した。賈俊喜さんの妻は、夫の遺骨を持ちながら「出るときは元気だったのに、帰ってきたら遺骨しか残ってないなんて!」と悲憤した。 *遼寧省の任淑傑さんは迫害により痩せこけて息も絶え絶えとなり、この世を去った 任淑傑さん(女性、42歳)、遼寧省瀋陽市鉄西区の法輪功学習者、瀋陽市于洪区東湖市場の衣服販売者。1998年末に法輪功の修煉を始めて、心身とも受益した。修煉してからの任淑傑さんは、正直、善良、勤勉、まじめ、寛容に人と接し、人を助けることを楽しみとし、顧客と同業者にも認められるいい人であった。
法輪功の真相を伝えたため、任淑傑さんは数回にわたって捕まった。2002年5月21日、任淑傑さんは、真相を伝えたため、瀋陽市鉄西区公安支局重工派出所の警官に連行された。両腕を斜めに背中に回して手錠をかけられ、顔を殴られ、足を棒で殴られ、長時間前屈の姿勢を強いられた。その後3年の労働教養を言い渡され、瀋陽市竜山教養院に監禁された。そこでは、7昼夜もの間、寝かせられないときもあり、警官の唐玉宝に2本の電気棒で30分も電気ショックを与えられた。 不法監禁されている間、任淑傑さんは長時間作業を強いられ奴隷のように酷使されていた。理不尽な監禁に任さんは64日間も断食で抗議をした。2003年6月、任淑傑さんは、警官の唐玉宝に、お年寄りの法輪功学習者を虐めないよう忠告した。そこで、唐玉宝にひどく殴打され、任さんは口が腫れ上がって歪み、目も黒く腫れ上がり、目は充血し、顔が変形してしまい、傷だらけになった。 2004年3月22日、竜山教養院は、任淑傑さんを馬三家教養院三大隊に移した。冷たい床に3ヶ月も寝かせられた。任淑傑さんは、顔が浮腫し足もむくんでおり、押すたびに深い跡が残った。この間にも任さんは断食で抗議を続けた。2004年12月24日に釈放されたとき、任さんは、体が極度に衰弱し、痩せこけて骨ばっていた。家に帰っても普通に食事をすることができず、体の状況はますます悪化し、2005年9月1日23時15分、この世を去った。まだ成人になっていない息子が残された。
*37歳の畢代紅は大連教養院で迫害され死亡 畢代紅さん(37歳)は、大連船舶検査局の職員で、法を得る前には頭痛、腰の病気があった。1996年に修煉を始めてから、心身共に健康になった。1999年、大法が迫害されてから、何度も北京へ陳情に行って大法の真相を伝えたため、家財が没収され、罰金を処せれた。仕方なく職場を離れ、生活の術もなくなった。 2003年1月、畢代紅さんは真相を伝えているときに告発され、旅順竜王塘派出所に連行された。家族への通知もないまま不法に旅順留置場に拘禁され、一ヶ月も経った。その後、さらに不法に2年の労働教養を強いられ、大連労働教養院に拘禁されて、心身共に傷つけられた。 教養院に着いた初日、畢代紅さんは裸で身体検査をされて、労働教養所の悪警察は「普教」(訳者注:修煉を放棄させる教育「洗脳」を強制する警察の手先のこと)に指図して、男性トイレの前で彼女の服を全部脱がせ、7、8人で殴らせた。全身が傷つけられ、耳と両目も傷つき、顔の大半が青紫色になった。彼女が殴られて倒れた後、「普教」の趙輝は、さらに足で彼女の口を力いっぱい蹴ったため、唇が破裂して、全部の歯が動くようになった。最後に、彼女を小部屋へ送り込んで苦しめた。畢代紅さんの足は大きく傷つけられて、歩くのにもバランスが取れなかった。母が、どうやってこんな足になったのかと聞くと、教養院は身体検査をするときに畢代紅さんが人を殴ったから罰せられたからだと騙した。 3ヶ月後、外観では傷は目立たなくなったが、畢代紅さんは熱が出て、咳、閉経、腹痛、病痛に苦しめられ、夜寝ることもできなくなり、明らかにやつれて老衰した。警察は見て見ないふりをして、全く身体検査をせず、犯人を利用して24時間監視をさせて自由を制限し、トイレにも行かせなかった。そして強制的に重労働を課し、(主に豆を選ぶ作業)、一袋ごとに500〜1000グラムの豆を入れ、階段を上り下りさせて畢さんに全部運ばせた。 林春紅という人(畢代紅さんを監視していた犯人)は、家族達が畢代紅さんを早く家に戻してほしいという気持ちを利用して、畢代紅さんの両親から計3、4千元を騙し取った。 その後家族は、畢代紅さんの身体の調子や顔色が悪いことに気づいた。家族が何度も強く検査を求めた状況の下、仕方なく畢代紅さんを検査に行かせた。検査をした翌日に結果が出て、午前中、重病のための服役中の一時出所の手続きを家族にさせた。畢代紅さんは2005年9月1日に死亡した。 *何貴芝さんは息子を失った後この世を去った 何貴芝さんは、黒竜江省樺南県に在住していた。孫の孫継宏さん一家と一緒に暮らしていた。1996年に法を得て、大法を修煉した後、多くの老年性疾病、ぜんそく、肺心病、気管支炎がいつの間にかなくなり、幸せに暮らしていた。99年7月20日に法輪功が迫害されて以来、何貴芝さんの信仰する権利と健康になる権利が剥奪された。警察は常に家に来て掻き乱し、体調がだんだん悪くなった。
孫の孫継宏さんは樺南林業局公安派出所の元所長だった。“真善忍”を信仰したため、何度も逮捕されて拘禁された。2002年9月25日、孫継宏さんはまた連行された。不法に北京豊台区玉泉営立体交差橋に拘禁されて、4日後の29日、悪警察に苦しめられて死亡した。死後の顔はとても惨烈で、眉毛の間に穴が一つ開いていた。顔の横に二つの穴が開き、身体中が傷だらけだった。 孫継宏さんの妻・袁和珍さんは、樺南県工商林業局貯蓄所の貯蓄部主任だった。2002年5月に北京で逮捕されて、留置場で酷く殴られ、両手は手錠で背中にはめられた。無理に食物を注入され、体は酷く傷づいた。健康状況も日に日に悪くなり、2003年7月に死亡した。 家族5人全員が中共によって迫害され、今は82歳の孫学仁さんと、十歳過ぎの曾孫の玉博ちゃんしかいない。孫継宏さんが迫害されて死亡した後、北京の相関部門は2万元の人民元を渡し、未解決のまま棚上げにした。孫学仁さんは何度も孫の濡れ衣を晴らすために北京へ上申に行った。方々に弁護士を求めたが、中共の政権下で受理する弁護師はいなかった。老人は家族全員の無実を国際社会へ訴えることを望んでいる。
上述のどの案件も血の債務であり、その報いは必ず来るでしょう。天理がすべてを制約しており、中共および江沢民集団が法輪功学習者の弾圧に作った血の債務も必ず報いられるでしょう。しかもその日はもう遠くありません。
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/10/5/111778.html)
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