日本明慧


「東の家で食べて、西の家で寝る」についての感想

 【明慧ネット2005年10月7日】皆さんはこの昔話をご存知かもしれないが、昔々ある娘が嫁に行く年になり、同時に二つの家から縁談の話がきた。東の家の息子は金持ちだが醜く、西の家の息子は貧しいが顔立ちがよかった。彼女は同時に二つの家に嫁に行こうと考えていた。東の家で食べて、西の家で寝ようとした。

 この娘は両方のよいところを独り占めにしたいが、現実の生活の中ではそれは不可能である。このように「東の家で食べて、西の家で寝る」という、利益はなんでも手に入れたい考えは、今どきの中国人では非常に一般的であり、これは実に貪欲と利益のみを追求する表れである。

 大法修煉は常人社会の中で行われており、我々は常人社会の中で汚染され、修煉の中で程度こそ異なるがそれが現れてくる。我々はその中で一歩ずつ歩き出さなければならない。迫害から6年が過ぎて、今でも一部の古い学習者は人心が重く、人心からなかなか歩き出せない。一方、名誉、利益、情にこだわり、常人のいわゆるよいことにこだわり、目の前の現実的な利益が損なわれるのを恐れ、あるいは情に巻き込まれ、なかなか外に出て真相を説明することができず、一方大法が素晴らしいことを知り、平和な時期での修煉で病気が治り、恩恵を受け、修煉を放棄したくないが、家にこもっていわゆる学法と煉功のみを行い、法を正す時期の正法修煉の要求を完全に満たしていない。

 師父は「大ニューヨーク地区法会での説法と法の解説」(2003年4月20日発表)の中で次のようにおっしゃった。「私もいつもこういう学習者のことを知っています。つまり煉功させてくれないのなら、どうしても煉功するし、法の勉強をさせてくれないのなら、どうしても勉強し、何があっても邪悪の言うことに従いません。生死をもって私たちを脅かしているだけではありませんか? もちろん、師父がここでこういうことを話すのは、皆さん修煉者に対して言っているのです。しかし、師父はあまり話したくはありません。常人はそれを聞いたら理解できないからです。私があなたに教えたいのは、本当に生死を放下することができる時になると、あなたには何でもできるということです!

 神の目から見れば、あなたの片手は人間のことを掴んで放さず、もう片方の手は佛を掴んで放していませんが、一体どちらが欲しいのですか?! 旧勢力の按配もこれと同じです。本当に放下できるときになると、情況はやはり変わってきます」。

 実際、表に出て大法を証明できなければ非常に危険で、旧勢力に迫害の口実として捉えられる。たとえば、最近の明慧ネットの報道によると、ある地方の学習者が、常人の中の利益が損なわれるのを恐れ、共産党を称え認める活動に参加したが、その後、体調が崩れた。

 また、四川のある造酒工場の45歳の社長・陳さんは、96年大法を得て、修煉前は体が弱く喘息があったが、煉功して全治した。業務が忙しいため、まじめに法を学んでおらず、夫はずっと彼女の修煉に反対していた。彼女の家庭環境はあまりよくなく、彼女は長期にわたり外で時間をつくっては法を勉強していた。2002年、酒に対して増税があり、経済的な圧迫が精神的な重圧となり、さらに2002年9月、邪悪の迫害によりその地方で多くの修煉者が拉致され、監禁された。2人の修煉者が迫害により死亡した。彼女は怖くなった。いろいろな方面での執着があり邪悪に隙をつかれ、長期間不眠状態が続き、眠ることができなくなった。2002年の終わり頃、彼女は酒造工場の仕事をやめ、家で身体を休めることができるようになったが、改善されなかった。夫が反対して、修煉を放棄し、病院に行って薬を飲まなければ離婚すると脅かした。彼女は心の中で大法を放棄することができなかった。しかし、夫との離婚も恐れていた。非常に大きな執着であり、彼女は絶えず苦しい矛盾と魔難の中にいた。師父はずっと彼女にチャンスを与えておられた。多くの同修が彼女と交流し、彼女を助けた。しかし、彼女は結局その枠から抜け出せなかった。長い間学法と煉功をしていなかったため、状況がだんだん厳しくなり、夜はまったく眠られず、昼間は元気がなく、最後には薬を飲んでも効果がなかった。大きな執着のため、彼女は完全に大法を放棄してしまった。夫と共に方々で診てもらい、また思う存分遊び回っていた。夫と貴陽での休養期間中の2003年11月2日、2人とも交通事故で死亡した。大法を放棄して2ヶ月も経っていなかった。

 大法学習者がもし法を証明するこの根本的な問題を前にして、はっきり認識しなければ、このこと自身が邪悪に協力し、旧勢力が安排した道を歩むことになり、最も危険な情況である。結局円満どころか、無私無我の新しい宇宙に入ることもできず、私的なことで旧宇宙の解体によって淘汰される。

 「クマの掌とふかひれ両方は得られず」という常人のことわざがある。大法修煉は人心を指しており、法を正す時期の大法修煉者として、あれやこれを恐れて執着を捨てないか、あるいは無条件に「真・善・忍」に同化し、外に出て大法を証明するか、これが根本的な問題で、生と死の分かれ道になる。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/10/7/111910.html