日本明慧


苦しみに耐えることと反迫害との関係に正しく対処しよう

 文/アメリカの学習者

 【明慧ネット2005年10月12日】師父の新経文『最後になればなるほど、精進すべき』を勉強した後に、私が少し悟ったことを皆さんと交流したいと思います。

 師父は『最後になればなるほど、精進すべき』の中で、「苦を嘗め難に遭うことは業力を取り除き、罪を除去し、人体を浄化し、思想境地と次元を高める絶好の機会であり、大変良いことです。これは正しい法理です。」と言われました。

 迫害が始まる前に、私はすでに数年間修煉してきました。そのとき、個人修煉の時期でしたので、たくさん乗り越えなければならない関門があり、いろいろな苦しみに耐えてきました。私は快くそれらの魔難の到来を歓迎し、いつも師父から教えていただいた「苦を嘗めることを享楽とし」(『洪吟・其の心志を苦しめ』)ということを唱えていました。

 迫害が始まった初期に、私はほぼこの状態を保っていたままで、個人修煉と反迫害との関係に正しく対処できず、大法の仕事を行なっているとき、自分を修することをおろそかにしていました。例えば、問題にぶつかると、私はすぐ正念を発していました。もちろん、これは法を正す修煉の中でやるべきことですが、私はいつも内に向けて探すことを忘れていました。ただ干渉だと思って、自分に問題があることを認めたくなかったのです。私は苦しみに耐えることと反迫害との関係を正しく対処できないことにより、徐々に意気消沈の状態に陥ってしまいました。

 深く考えてみれば、迫害からの苦しみに耐えている時に、もし自分を修する要素がこの苦しみの中に含まれていることを忘れたら、この段階で取り除くべき観念と執着を取り除くことができず、旧勢力はこれを利用してさらに迫害を強めることになります。もし長期にわたってこの状態に陥れば、取り除くべき執着が取り除かれず、これらの執着の蓄積により、さまざまな執着心が互いに助長され、さらに複雑な状態が現れてきます。これらの執着心と観念の蓄積に伴い、自分が正法の理に従って行なっていないことで、非常に意気消沈の状態に陥りやすいのです。

 師父は『最後になればなるほど、精進すべき』の中で、「もちろん、こういう情況にいる多くの弟子は実は最初、自分にある軽い執着または観念の妨害に気づくことができず、邪悪に隙に付け入られ、妨害の要素を強められたから、このようになったのです。」と言われました。

 当時、私は長期にこの状態に陥り、消沈、挫折感が次々と現れて、周囲の環境にも失望感を覚え、頭が混沌となり、さまざまな良くない現象が現れました。これらの事により、修煉の中で正しくやっていくことは非常に困難なことだと思うようになりました。

 それでは、どのようにしてこれらの問題を解決するのでしょうか? 私自身の体験としては、まず、何のために修煉しているのか、修煉はどういうことなのか、魔難が何のために存在しているのか、正しく対処する方法は何か、などの問題を、もう一度よく考えてみる必要があると思います。根本から言えば、師父の教えに従って、法を正す中で大法弟子としての使命を果たすと同時に、自分を修することも忘れてはいけません。もし、魔難に遭ったら、すべて邪悪の干渉だと思い、正念を発することだけでそれを取り除こうと思うならば、内に向けて自分の執着と観念を探すことを忘れてしまうことになり、修煉者が向上すべきところが向上できず、当然良い結果が得られません。
一方、もし修煉中に出遭ったあらゆる魔難を、すべて向上のチャンスだと見なせば、法を正す中で私たちが果たすべき役割を果たせなくなり、ただの個人修煉の状態に陥ってしまいます。私自身の認識としては、苦しみを感じた時、このチャンスを利用して執着と観念を放下すると同時に、法を正す角度から、情勢をはっきりと認識し、干渉を取り除いて、真相を説明し、あるいは具体的状況に合わせて適切な行動を取り、法を正すことに要求された大法弟子の到達すべき基準を目指して邁進すべきだと思います。

 以上は、個人の感想です。同修の皆さんとの交流を希望します。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/10/12/112281.html