日本明慧


若い弟子の婚姻について

 文/長春大法弟子

 【明慧ネット2005年10月11日】正法時期の大法弟子は結婚すべきかどうかについて、一部の学習者は、それぞれ自分の意見があってずっと言い争っている。その中には、結婚は正に情欲を強めることであり、正法がすでに今日まで至っているので、更に高い基準で自分を要求すべきであり、これらのことに触れないほうがよい。しかも、家庭生活はあまりにも時間を無駄に使い、大法を証明することに影響するので結婚しない方がよい、と考える弟子がいる。私はこのことに対して、個人の認識としては過度に非難すべきほどのものではないと思う。自らの認識は自らの要求に対してのみ使うべきであると考える。それは一人一人の歩む道が違うからである。これから私が述べることは、幾つかの異なる認識である。

 1、 結婚と情欲との関係

 婚姻は常人の一つの生活方式である。伝統的な意義から言えば、婚姻は、主に縁と子孫を残すためである。縁は、婚姻にとって決定的な要素であり、昔の婚姻は主に親によって決められ、結婚前に双方が顔を合わすことはなく、根本的に何が情で、何が愛かなども言う必要はなかった。結婚は情欲が重いことを意味せず、結婚しないことは情欲に執着しないことと等しいことでもない。これらについて表現する人もいれば、隠して表現しない人もいる。修煉は主に心を修めることである。実際、結婚するかしないかに関わらず、情欲などのものは全て修めるべきである。どうやって自分に厳しく要求するか、どうやって修煉中に自分を良くコントロールするかということが肝心である。

 正法時期の大法弟子として、私は常人の状態に合わせて、修煉すべきだと思う。結婚したければ、正々堂々と結婚し、心理的な負担を持たない方がよい。しかし私達は必ず良くコントロールすべきで、常人の腐敗した形式には従わないで、自分の修煉に汚点を残してはならず、更に大法に泥を塗ることをしてはいけない。多くの大法弟子は結婚したくないと思い、これも間違いではない。家庭や親友などの各方面の関係を円容できれば問題はない。

 正法の時間の推移に従い、多くの未婚の大法弟子の年齢がどんどん高くなっている。未婚の大法弟子の人数も多くなっている。この方面での問題はすでにとても目立っている。この部分で未婚の大法弟子と彼らの家族はとても大きな圧力を感じている。この圧力は、旧勢力の彼らの思想に対する直接的な邪魔もあり、また当事者と周囲の学習者の観念の隙に邪魔が入って、強化し、拡大された人心の要素もある。

 私は未婚の大法弟子であれ、また周りの他の大法弟子であれ、私達はこの方面での法理について必ずはっきりと認識して、再びはっきりしない状態に落ち入ってはならない。

 結婚したくない大法弟子の中には、時間に執着する弟子もいる。とりあえずそろそろ終わるからなどと思い、その結果、想像した時間が過ぎてもまだ終わらず、また常人の生活を一度楽しんでもよいと考え、修煉の中で精進しない状態が現れる場合もある。この方面での教訓はすでにとても多い。私達は再び極端に走ってはいけない。どんな時でも、私達は心理状態をきちんと保ち、着実によく歩むべきで、これこそ本当の成熟である。

 この数年間の正法修煉の中、一部のとてもしっかり修煉してきた大法弟子らは、彼らにこの執着心がないのではなく、違いは、彼らがこれらの執着に直面した時、それらを取り除くために努力したことである。逆に、酷く邪魔され、迫害された大法弟子の大部分は常に意識がはっきりとせず、あるいはためらって、あるいは周りの考えに左右されて、いつも自分の考えを修めることができなかったからである。彼らは多くの漏れに対して根本的に意識できず、あるいは意識できても、自ら直面する勇気がなく、そして言うまでもなく更にそれを取り除くこともできなかった。そのためにいつも邪魔され、いつも受動的な状態なのである。正法時期の大法弟子として、私達は必ず自分に属する道を歩み、自らのものを修めなければいけない。

 2、 「婚姻の話をすると顔色が変わる」ことは法をよく理解できていない現れ

 また多くの大法弟子は、「婚姻の話をすると顔色が変わる」ようである。このような婚姻に対する恐怖は、主に一部の既婚大法弟子が情欲と家庭生活に落ち入って、また一部の若い大法弟子が恋愛中、あるいは結婚後の状態が意に添わず、ひいては情に支配されて気が動転し、自分の立場や大法を証明する中での責任を忘れたことに原因がある。これらのマイナス面の教訓は往々にして人に錯覚を与えて、一旦恋愛、結婚などの問題に言及するとこの人はもう駄目で、落ち始めたように思わせる。これは私達がこの方面でよく把握できず、漏れがあるから生じたことであると思う。これは決して、婚姻自体が間違いではなく、この道自体に問題があるからでもない。

 家庭生活を持ちながら、常人の中で、修煉して円満すること、これは師父が私達に残した修煉形式であり、私達はただ円容することができるだけで、否定したり、疑ったりすることはできない。よく歩めるかどうかの原因は、私達にある。問題があったら、私達は必ず自分のところに原因を探し、外に向けて探してはいけない。

 また一部の既婚大法弟子が「婚姻の話をすると顔色が変わる」ことは、彼らが結婚後の家庭生活があまりに苦しく、あまりに疲れていると感じ、直面したくないからである。またこのような恨み言を未婚の大法弟子に「婚姻は苦しい、疲れる、これは避けた方がよい」と言う。これは未婚の大法弟子にとても大きなマイナスの影響をもたらした。このように自分の体験で物事の善し悪しを考えるのは人心の現れであり、大法弟子はすべて法に基づいて考えるべきであり、個人の体験を評価の基準にしてはならず、更にこのような体験を大法の中に持ち込んではいけない。もし自分が婚姻の中でしばらく苦労したならば、また情の「苦難」を辛く受けたにもかかわらず、これらがあなたの常人の中での反対の道理に対する執着を放下させることができなければ、そのような恨み言は如実に自分の心性状態を体現している。すなわち、情を放下することができず、法に対しても良く理解できていないことを現わしている。

 他人の環境を羨み、他人の状態を羨ましく思うなど、この山上に立ってあの山が良いと思い眺める人心は、人の一種の過分な要求であり、すなわち常人の中でのいわゆる幸せの追求であり、心地よいことに対する追求であり、苦しみに耐えることに対する排斥である。私達の修煉環境をも含めて、すべては順序良く按配されており、修煉の中には偶然な事は発生しない。もしあなたが別の環境で修煉させられたなら、本当に多くのものを取り除けないかもしれない。そうするとあなたは本当に円満できない。修煉自体は正に苦しくて、難しい。目前の功利を求めて、急ぎ近道を歩こうとすることは駄目である。私達にできることは物事の中で自分の心理状態と行為を正し、自分の修煉の中での向上によって環境の良性的変化をもたらし、おのずとそこへ達することである。

 みな時間に限りがあり、三つのことを良く行うと同時に、家庭、仕事、社会などの方面での関係を円容することは、確かにとても難しい。しかし、それが難しいから私達が逃げようとすると、それは人心の現れである。これは肉食問題と同じ道理である。

 3、 婚姻の道を正しく歩むことも私達の責任である

 大法弟子が婚姻問題に対してどう正しく対応するかは、個人がいかによく修煉するかの問題だけではなく、未来のために一本の純粋で、健全な道を残せるかどうかに関わり、正しく良く歩む意義は、すでに個人の損得を超えている。当然、他の大法弟子の心理状態も、このことをもっと正しく歩めるかどうかに影響することである。修煉の中で精進する学習者は、実際、常に大法を証明しており、修煉の特別さとすばらしさと正法時期の大法弟子の偉大さを体現している。

 この悟りはまだ明確ではない。はっきりと悟られた学習者からのご叱責と補足をお願いします。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/10/11/112135.html