日本明慧


グループで法を学んでの体験

 文/中国大陸の大法弟子

 【明慧ネット2005年10月13日】明慧ネット2005年10月7日に発表された、「グループで法を学ぶことの復活を軽視してはならない」を読んで、私たちの地区で、最近のグループで法を学ぶことと対比して、私個人でのいくつかの体験を同修と交流したいと思います。間違いがありましたらどうぞご指摘ください。

 (一) グループで法を学ぶ際、必ず心を静める

 皆さんはグループで法を学ぶ重要性を認識していますが、同修は今、衆生を救うための具体的なことを負担しており、心は人を救うことをより重視して考えています。さらに、グループで法を学ぶことに対する認識がいまひとつ足りない人もいて、それらがグループで法を学ぶ際に心を静められない原因となっています。途中で水を飲んだり、トイレに行ったり(指摘後に改めた)するのは心を静められていないためです。どんなに忙しくても、私たちは心を静めて法を学ぶべきです。毎日たった30分だけの学法でも、心を静めさえすればよい効果が得られます。だから、私たちはグループで法を学ぶ際に必ず心を静めるべきです。法をしっかり学ばなければより多くの衆生を救うことは出来ません。

 (二) グループで法を学んだ後は、お互いに体験を交流して切磋琢磨すべきである

 私はグループで法を学ぶ中で、法を学び終えた後、皆が具体的なことを話し始めるのに気づきました。たとえば、いかにして救援するか、誰が何をするかなどです。話し終わると解散してしまい、法を学んだ体験を交流することはありません。交流による切磋琢磨は、師父が私たちに残してくださった修煉形式です。大法弟子の修煉の道もまた後の人たちに残すものです。特に「7.20」の後、旧勢力の迫害によって私たちはグループで法を学ぶ環境を失いました。大法弟子たちの間に隔たりもできてしまいました。そのため、私たちはさらに一緒に交流し、切磋琢磨する必要があります。特に今は三つのことについての交流です。お互いの違いを見つけ、共に高め合い、一つの円容で不破の集合体を形成しましょう。これもまた徹底的に旧勢力の按配を否定し、師父の残してくださった道を進むことなのです。このような形でのみ、私たちは「大法弟子としての姿を表」すことができるのです。(『プラハ法会』より)

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/10/13/112269.html