修煉者であるという自覚を持てば仕事がもっと早くなる
文/台湾弟子
【明慧ネット2005年10月13日】我々はいつも修煉者であるという自覚を持ってこそ精進できることを知っている。また、何をやるべきかを知っている。しかし、時には予想した結果と異なり、満足できないことがある。一部の学習者から、状況が厳しいとき「仕事を完成させることが重要か? それともいつも修煉者の自覚を持つことがもっと重要か?」という質問が出た。
私はその質問はおかしいと思った。修煉者の自覚を持てば仕事が早くなるのではないか? 仕事の効率がもっと上がるはずである! 仕事が進まない時往々にして、我々は常人の方法で仕事を行っている。それゆえに抵抗も大きく、効率が悪い。
実は、たびたび我々は表面的に「修煉者の自覚」を持っている。法を勉強し、煉功し、正念も発した。しかし実際に仕事のことになると、修煉を忘れ、矛盾や邪魔に対して常人の心で対応し、学習者間の隔たりや非協力的な状態、あるいはこれらを「技術の問題」とみなし、これらが他の空間からの邪魔だと認識しておらず、正念をもってこれらを一掃することができなかった。その結果、大法の仕事が常人の仕事になり、進まない、これが遅れの根本的な原因である。
生活の中でのいくつかの例を挙げよう。自分が基準に達するべきだと思ったときは、朝4時半におきて煉功するので、夜12時で正念を終わり、すべてのことをおいてもまず休憩をとり、他のことは明日に回す。しかし往々にして多くのことがその日に終わらず、あと3分もあれば完成できると思うのである。しかしその3分で終わらず、それではさらに3分かけようとする。そして次から次へ時間を費やし、夜遅くなり、1時か2時になってやっと眠りにつくことができる。これでは、毎日2〜3時間の睡眠しかとれず、いつも睡眠時間が足りず朝起きられなかった。時計が鳴ったが、人の観念が出てくる。昨日あんなに遅く寝たので、もし起きて煉功してもしんどいから、もうちょっと寝よう。後で煉功すればいい。そして時計を止めて、もう3分間寝よう。いずれ2番目の時計が鳴るから、そのとき起きればいい。結局2番目の時計も叩いて、3番目の時計が鳴って、とうとう5時をすぎ、煉功しようとする気持ちが薄らいできた。人の考えがまた出てきた。どうせ昼間の煉功は無理だからもうちょっと寝よう。そして朝の6時過ぎにようやく起きて、発正念の時間も過ぎた。(注:台湾の時間は日本より1時間遅い)
朝、煉功しなかったら、法を勉強する時間、真相を説明する時間、さらに授業や仕事もあり、時間をみつけて煉功するのはたやすいことではない。そしてこの一日は煉功しなかった。あるとき2〜3日煉功しなかった。だから、今日こそ起きて煉功しようと思い起きることができた。このように2〜3日のうち1日は精進できる。そして、煉功を続けられなくて、自分の修煉に対しても自信がなくなり、他の面もよくなかった。
このすべての原因は自分の心性を守らなかったことからきた。自分は達成すべき基準に沿っていなかったためである。往々にして多くのことがよくできなかったり、レベルが落ちたりしたとき、ほとんどがわずかな心性を守らなかったことから始まった。千里の堤防は蟻の穴で潰される。
真相を説明する前に、正念を発しているのだろうか? 正念を発していなければ、なぜそうしなかったのか? 人の考えはいつもこうだ。「発正念は15分かかる。この15分で多くのことができる。しかもいろんなことが処理を待っている。私は非常に重要なことに責任をもっている。多くの衆生に関わっている。衆生を済度することが最も重要で、どうせ私は法を勉強しているし、煉功もしている。発正念は4回できればいい」。
よく考えてみると、このような考えは正しいだろうか? 法を学んでいるし、煉功もしているし、4度しっかり正念を発しているし、衆生済度のために仕事をすること自体は間違っていない。しかし、基点を間違えた。この問題で、この15分間を惜しんで正念を発しないのは、人的な考えではないか? 神はそんなに急ぐのか? 人の状態で仕事をして、人間としてどうやって魔に勝つのか? 神こそ魔に勝つものだ。このとき、冷静になるべきで、私は修煉者、修煉者の基準でことを行うべきで、一旦修煉者の状態になれば、初めて神の威力が発揮され、師父と正神も手伝ってくれる。もし自分が修煉者の状態でなければ、人的いわゆる努力でどうやって他の空間の邪悪生命を一掃するのだろうか? どうやって魔に対抗できようか?そのため、よくがんばったが、仕事が遅れて、よくできなかった。
こんなことがあった。あまりやるべきことが多すぎて、これらをはやく終わらせたいため、完全に人の状態で仕事を行い、結局最も重要な機械が故障した。繰り返し正念を発し、自分に向かって反省し、自分の思想の中のよくない思想を一掃し、自分の根本的な執着を見つけて、それを否定し、取り除いてから、徐々に修煉者の状態に戻った。いったん修煉者の基準になれば、師父と正神が助けてくれる。その後、機会が復旧し、仕事が続けられた。しかし、私は遠回りをした。
我々が仕事をするとき、師父がいつも隣でみていることを悟った。師父はあなたが大法を第一にしているか仕事を第一にしているかをみている。時々、仕事で大きな困難にぶつかって突破できないとき、心の中でずっと私がどうやってこれを突破するかを考えている。しかし、往々にしてこれでは突破できず、人のやり方でやって、どうしようもなくなり、この仕事を諦めようとするとき、心の中で、師父に頼めばよかったと考えたりした。このとき、仕事への執着がなくなり、実際は大法を第一にしたわけで、すぐに突破できた。
多くのとき、我々にできることが少ないわけではなく、我々が修煉者の基準に達していないためである。魔が邪魔しにきたとき、自分が修煉者の自覚がないため、正神が助けようとしても助けられない。なぜならあなた自身の正念が足りず、自分を修煉者として、大法を第一にしなかったからだ。しかし、あなたは魔難の中で迫害を受けているのに、なかなか悟らない。
しばしば最後に邪魔がどうしようもならないとき、まず正念を発しよう、後でどうやるかを考えようと思い、正念を発すると一気にできたりする。しかし、その後、また人の観念でこれをみて、やはり発正念が有効だと思い、結局いつも人の観念で正法修煉に向かい、できなかったら意気消沈し、できたら自信過剰になる。
もう一つ、なぜ正念を発するとき一部の学習者の手が傾くのだろうか? 通常は眠たい、あるいは睡眠不足のためである。眠たいなら、目を開ければよい。なぜそれらの人は目を開けたくないのか? ずっと眠ったままにしているのか? 寝たいからである。寝たいこと自体は人の観念ではないか? 発正念するとき、人の観念で発正念に向かっても効果があると思うのだろうか? 人の観念で正念を発して冷静になるのか? もし正念を発するとき、師父の法身が隣にいて、いろんな功を発しているのが見えると、このとき、あなたの手は傾くだろうか? 人はいつもこのようで、よく自分で自分を騙す。師父が隣にいるのを知っていても、知らない振りをする。どんなことをやるときも、いつも人の観念で認識している、「誰もみていない」。このような「誰もみていない」という心が現れると、排斥しなければ、抑制しなければ、結局常人の状態になる。
以上は個人の認識であり、いつも修煉者としての自覚をもつべきで、その時初めて師父が我々に安排した道を歩むことができる。
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/10/13/112195.html)
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